人生は選択に満ちている。入学、就職、結婚、転職、老後の過ごし方など、ライフサイクルのステージに応じた様々な選択がある。その他、衣食住や趣味などその人の生き方に関するもの、読む本や情報取得方法、付き合う人々、仕事の仕方、人生の進路まで、「物」、「事」、「人や生き方」に対する選択を絶えず行っている。誕生以外は基本的にはその人が責任を持って選択し、その結果責任を負い、それらの選択そのものが人の「個の人生」を形作っている様に見える。
先日、何年かぶりにゴルフクラブを買い替えた。自分の力量に応じたクラブ選択は悩ましいものだが、実は自分の力量を正確に把握すること自体、素人にはかなり難しい。クラブの開発は日進月歩で、各メーカーが凌ぎを削って、易しく高機能なクラブを開発している。我々素人の技術が未熟な発展過程だとすると、体力やフィーリングに合ったものを選べば、ほぼクラブの進化が我々に合わせてくれる、或いはクラブが我々のスウィングを矯正してくれる。自分に合ったクラブを選択する様でいて、クラブの方が上達していて、クラブに選択されている。
仕事の選択にも同様な事が言える。仕事の多くは、かなり以前から人々によって鍛えられ、改良され続け今日に至っている。例え、我々の専門性やマネジメント力が高くとも、歴史上の最高峰の技術や力量に比べれば何程のことも無い。我々は仕事を通して、技術や生き方を学ぶ未完成の存在である。従って、「自分に合った仕事を見つけたい」とよくお話を聞くのだが、何か違和感がある。特にプロフェッショナルな仕事ほど、仕事が人を選ぶのではないだろうか?
選択している様で、選択されているのだ。
転職の際も、期待される仕事が出来るのか否かは、ある一定水準のスキルやマネジメント力は必要だが、独りの仕事ではない。顧客、上司、同僚、部下、業者さんなどが力を合わせて達成するケースが殆どであり、皆が「よしっ」と力を合わせられる様な環境を作ることの方が重要である。仕事柄、企業の再生やあらたな市場の開拓、企業そのものの大きなビジネスモデルの変革など、様々なケースの人材補充に遭遇する。有能な候補者を口説いて、クライアントとのディスカッションに臨んで頂き、互いのケミストリーを探る。候補者が仕事を選ぶというよりは、より複雑で高度なプロジェクトに参加して頂き、皆の力を結集させる能力が問われている。言い方を換えると、クライアントが候補者を選択する訳でもなく、候補者が仕事を選択するのでもない。明らかにその企業の個の「仕事」や「プロジェクト」にクライアントも候補者も選択されているのだ。何故なら、仕事やプロジェクトの最高水準は無限に高く、その企業の置かれた個の状況はそれを必要としているかも知れないからである。
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