1 良いものは美しい。
良いものは美しい形をしている。私は道具好きだ。精密機器、乗り物、スポーツ用具、家具や日用品、装飾品などに至るまで、時代を超えて息づくブランドがある。これらの中には、何十年も「基本的なポリシーとデザイン」を変えずに生き残っているものがある。良い道具は優れたデザイン性を持ち、地域や国や時代を超えてゆく。以前から感じていた事だ。これを「普遍性なデザイン」と呼ぶこととする。物心ついて良いデザインとの最初の出会いは、父の持っていたIWCというスイスの機械式の金時計だった。今も出来れば元気なうちに手に入れたい、と思うブランドがある。どうせ手に入れるなら、ある程度元気なうちで活躍する場がないと、宝の持ち腐れになってしまう。
2 普遍性を持つもの。
造形物としての、寺院、仏閣、仏像などもそのジャンルだろう。最近では、新幹線なども究極の形に近い気がする。因みに、自然の造形物は動植物を含め常に究極の形をしている。「形は機能に従う」のである。環境適応を突き詰め、無駄を削ぎ落としてゆくとこのデザインに到達した、と主張している様だ。人間の肉体の理想形も時代を超える普遍性を持ちえるのだろう。最近のラグビーワールドカップを観戦して、本来のアスリートの鍛え上げられた体躯の素晴らしさを再認識した。ミケランジェロは、かつてロダンを彫刻し、人間の若さ、力強さ、聡明さ、柔軟性などの理想形を残そうと試みた。人も動植物に属する。本来は肉体を鍛えて、常に餌が取れる様準備しておかないと滅びてしまう筈だが、文明の恩恵で何とかなってしまっている。
3 無形のものにも普遍性はあるのか?
形を持たず、触れる事が出来ないIntangibleなもの、知や技術、文化、教養、立ち振る舞い、言語力などは、普遍性があり地域や時代を超えるのだろうか?
私見だが、Intangibleなソフト面には、知やスキル、技術の様なある程度トレーニングで向上してゆくものと、それを司る精神面との二面性があるのではないか、と考える。その精神面は多様で、複雑であり、努力したからと言って必ずしも進歩するものではない。従って、知は優れていても、その使い方や使う方向性が間違っており、その人の本来の力を発揮出来なかったり、結果として世のために貢献出来ない、という現象が生ずる。
私にはこの事が、人間社会の多様性を生んでいるとも言えるが、反面、誠に勿体無いとも思う。ハード面(肉体)とソフト面の半分が優れていても、もう半分の精神面が未熟だと、その人の力を十分に発揮出来ないのだ。一方で、肉体面や技術やスキルが突出していなくとも、そのアセット(資産)を司る精神面が充実していれば、人はその環境で、その人なりの能力を発揮できるという重要な事を示唆している。自身の限界を知り、持てるものを発揮することで、人はその場で輝き始める。なかなか人生は複雑である。
完璧な人間などは存在しない。人格やリーダーシップ、確かな技術や知恵、行動力などのポジティブな側面と、煩悩、争い、恐れ、嫉妬、弱さなどのネガティブな側面との葛藤を描いたのがギリシャ神話である。塩野七生氏の「ローマ人の歴史」は、歴代のリーダーの栄枯盛衰を描く中で、当時のリーダーシップスタイルが現代にも立派に通用することを立証している。
4 人のリーダーシップは普遍性があるか?
企業がサバイバルする為に様々な経営形態やビジネスモデルが生まれては消えて行く。「組織は戦略に従う」のであり、戦略により組織やビジネスモデルは変化する。但し、その企業を構成する中身は人であり、人のリーダーシップは本来普遍性を持つものである様な気がする。この中には、技術、スキルとそれを司る精神面のバランスがある。シンプルで分かり易く、人の心を捉え離さない、万人に通じるものである場合が多い。それはデジタル変革が求められる現代においても同様である。
5 連綿と繰り返し、達成しえぬ人の精神性。
逆に言うと、科学や文明が発達しても、残念ながら文化や精神面は2000年間進歩を遂げていないとも言えるし、ある普遍性を持つと変わらない境地に達するとも考えられる。実は、肉体の能力やスキルより、人としての精神性の充実に大きな差があるのである。何故、この様な構造になっているのだろう?私はこの事が不思議でならない。何千年も人は短い一生の中で繰り返し「本来の人間」になろうとして、もがいては力尽きて死んでゆく。その連綿とした活動に想いを馳せる。人一人が一生のうちに到達出来る内面の進歩には限りがあり、その限界が存在する事自体に「意味」があるのかもしれない。未完成のままである事、そしてこれこそが人としての「普遍的なデザイン」とも言える。
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