1 身分と服装の一致。
弊社のグローバルミーティングの最終日は、時折、ドレスコードがブラックタイとなる。古くからの慣習だが、100人を超えるパーティで、タキシードの紳士がカクテルドレスの淑女達をエスコートする様は壮観である。もともと男性側の黒のタキシード着用は、女性のドレス姿を際立たせるのが目的だと言う。そこには相手の為に装うという「服装」の原点がある。欧米文化に限らず、それぞれの国々で、文化や文化行事と服装は密接に関連して来た。日本でも江戸時代には、身分、階級と服装の一致があり、それが廃止された後も、明治、大正、昭和と日本人の仕事と服装の一致はある程度保たれていた。生活保護法などはまだ施行されておらず、路上生活者がまだ多く存在していたのが昭和30年ぐらいまでにかけてである。その功罪は別として、堅気とそうで無い者は大別され、一目で識別された様な気がする。
2 市井の中間層が危ない!
一方、当時の市井の日本人中間層は、礼節、良識、教養、文化等の観点から、世界に誇れるものを持っていたのではないか、と思う。地域の連携と助け合い、催事での伝統に裏付けられた服装、公衆の面前での子供の躾、清貧なる暮らしぶりなど、「謙虚で中庸の美徳」という表現が適切かどうかはわからないが、文化の水準はかなり高かったのだろう。昨今、その善良で堅気に見える「中間層」にさえ、その崩壊と無法化が静かに進行している様に感ずる。ここで言う中間層とは、市井の善良で良識ある民間人という意味である。私は、近年の「服装のカジュアル化」と「失われた20年」が深く関連しているのではないか、と考えている。
例えば、友人や先輩の家のディナーに招かれた場合、ジーンズとTシャツでは行かないだろう。服装は相手に対する礼儀と、少なくとも私は怪しい者ではありません、ご安心ください、というメッセージが込められている。国民総カジュアルになれば、お互いに他人の事など気にしなくなってしまうのではないか。特に危ないのは、日常的にストレスを抱え生きていて、何かきっかけがあればすぐに発火する状態の人々である。ほんの極々一部の人々の話かと思っていたが、煽り運転や電車のちょっとした諍いから大きな事件に発展したりして、最近は誰がどういう人物なのかが全く見当がつかない。服装のカジュアル化に伴い、サラリーマン、学生、フリーランス、政治家、医者、芸術家、働く主婦などが全く外見からは判断がつかない環境となった。
3 働き方の多様化とそれを隠れ蓑にする人々。
また、IT技術が発展し働き方が多様化する事で、平日の昼間にカジュアルな服装で街に存在している人々が激増しているのも現代の特徴である。デイトレーダーなどをしている人は一日中家に篭り、PCと格闘し、巨万の富を手にすることもあるという。こういう土壌は、一見堅気を装った悪人や悪人もどきの者達にはまたと無い好機である。振り込め詐欺等の首謀者は、ごく普通の学生風の若者達や中年のサラリーマン風で、凶悪犯がそれらしい風貌や服装をしていないのだ。暴力団風の分かりやすい人物像は息を潜め、その代わりに半グレ集団風と、それに乗じた若者達が跋扈し、双方は全く見分けがつかない。麻薬の売人に至っては、インターネットを通じて全くの素人が手先として使われ、それは中学生にも及んでいるという。
4 誰に何をされるかわからない。
善良な市民は、街中でのトラブルを見ても、もしや半グレだったりすると何をされるか分からない、という警戒心で見て見ぬふりをする人々が激増している。それに乗じた、普通の若者達、中年層の横暴な振る舞いが日常化している。これが問題なのである。また、老年組は紳士・淑女的かというと、これがそうでは無く、深く静かに退廃化が進んでいる様に感ずる。服装、言葉遣い、マナーを含めてである。何か「もういいや、」という感じで、今までいろいろ我慢して来たが、自分が損をするだけなので、馬鹿馬鹿しくなって来た、という感じだろうか?江戸時代の身分制度がベストな訳では無いが、まともか、そうでないかが、ある程度判断出来ないと、善良な市民は誠に息苦しい。
昔はいただろう市井の賢人達はどこに行ってしまったのだろう。公衆の面前でマナーについて他人に注意を促すご老人もめっきり見かけなくなった。道理が通る相手が激減し、逆切れされ下手をするとボコボコにされるリスクがある。情報過多で自分なりの知恵を持たないのではないか、と疑ってしまう人々も増える一方だ。自分を棚上げして言ってしまうと、「愁眉を開く」という言葉があるが、そういう顔付きの日本人が減っている。一体、これらの現象の根っこにあるのは何だろうか?
5 抱えるストレスの根っこ。
個人が発信力を持ち、瞬時に情報が世界中を駆け巡る時代になった。それは信頼出来るものと、根拠無く無責任に発信されるものの珠玉混合である。瞬時に生まれては消える珠玉混合のフロー情報に浸っていると、大多数の人々は情報過多で未消化状態になる。何を信じて良いのか、何を発信すべきで、何を発信すべきでないのかを含め適切な判断がつかなくなってしまう状態である。自分の力で考え行動し、成功や挫折を経験したり、歴史をじっくりと学んだりして、「知恵」を蓄える機会、所謂、ストック情報を蓄積する暇が無いのある。これはかなり強いストレスになるのでは無いだろうか。勿論、これだけでは無いにせよ、言葉はある意味「命」でもあり、情報の氾濫で価値ある言葉や行動が埋もれてしまう状態である。
古美術などの真贋を見極めるのに、その筋の方々は、美術館巡りなどでひたすら本物ばかりを見て訓練するそうだ。ブロでもそう言う訓練を経て始めて真贋を見抜くことが可能になると言う。従って、素人が情報氾濫の世界に浸っていると、言葉や情報の価値判断、審美眼や、中庸で謙虚な本来の日本人堅気を失ってゆくのも頷けるのである。
真の言葉や知恵に出会いにくくなっている事が、逆に服装のカジュアル化を加速させてしまっているのかも知れない。公衆の面前感覚の消滅である。50年ぶりの自国開催のオリンピックを控え、多くの外人が来日し現在の日本人を評価するだろう。一体、日本人はどこに向かうのだろうか?非常に気になってしまう。
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