ウサギとカメの話がある。器用だが飽きっぽいなまけものが、不器用だがコツコツと努力を続けるものに結局は負けてしまう、と言う話だ。長く生きると自分事も他人事もいろいろな生の事例が思い出される。よく考えると悲しい話である。最近、何だか身につまされ、ウサギに対する愛着も感ずるようになった。仕事の継続、習い事の継続、人間関係の継続、信頼の継続、生きることの継続、それぞれに難しい。だがずっと終わりが無いのは、もっと恐ろしい。終わりがあるから継続することに張り合いと価値が生まれる部分がある。
人にはそれぞれにGiftedな才能があり、自分に合った専門性を長年かけて磨き抜き、何らかに貢献する様に仕組まれている、と言う。何かに役立つ道具として世に遣える訳だ。そのため、「継続力」は人の持つべき能力の中で最も重要なもの、という考え方がある。リーダーシップ、洞察力、企画力、行動力、コミュニケーション力、それぞれに重要な能力だが、その活動をある一定期間継続して、それぞれの失敗や成功が何故なのかを反芻したり、内省して身体に染み込ませるプロセスを経ないと、なかなか本物にはならない。ある専門性の高い仕事を考えてみると、その技術の習得に最低10年、あるいは20年かかるものも珍しくない。人はひとかどになるためには、それなりの努力と期間が必要ということだ。残念ながら近道は無いのである。
専門性の高い職業の最たるものの一つが「経営職」である。企業経営は、企業が遭遇する様々な状況に応じて、適切な対応を迫られるものである。従って、過去の経験の集積の中に豊富な対策の引き出しを持っていないと、初めての体験の連続になってしまう。これでは、事業の継続性は覚束ない。経営判断とは不完全な情報の断片から如何に優先順位をつけ、手順前後の無い判断を下し続けられるか、の戦いでもある。
「ああ、これはどこかで体験したことがある・・・」というデジャブの引き出しの数(これを経営の因果律という。)の勝負となる。従ってその時々の判断の出来、不出来で倒産や大規模なリストラに追い込まれることもあり、特に日本では「はい、ご破算で願います!」とはいかない事情がある。生き残って経営ノウハウを蓄積することが、倒産やリストラという、大勢の人々とその家族に影響を及ぼすという、自分事では済まされない事との背中合わせである所に、経営職が高い専門性を求められる所以がある。
従ってMBAなどのケースで疑似体験を多く積む訳だ。ただ、疑似体験は疑似体験なのでMBAの資格そのものに価値がある訳ではない。残念ながら、日本では経営者としての専門訓練を経て経営者になり、10年、20年経営を続け、それぞれの企業の成長ステージや環境変化に応じた多様な経営体験を蓄積した方々の絶対数が少ない。日本が世界に伍するために、社会が一丸となって「経営者市場」を作らねば明日の日本は無い、という危機感が足りないと思う。
オーナー経営者の中には20年以上も社長職を経験し、企業の成長や環境の変化に応じた様々な対策を打ち、今なお成長を続けている企業を率いている事業家も存在する。経営者というよりは実業家なので、サラリーマン社長とは経験による蓄積と覚悟が全く異なるので比較にはならないが、オーナーにとって会社は子供のようなものなので、肩入れし過ぎて失敗することもある。
原題の「継続力」の話しに戻ると、黙々と技術や経験を蓄積されて来た方は、不思議とあるレベルの品格を備えている。そういう方が、他の分野の事を始めてもまたたく間にその技術の本質を掴み、上達が早いことがよくある。これを我々は、Carring Skill(持ち運びが可能なスキル)と呼んでいる。ある技術やノウハウはずっと深掘りしてゆくと、Carring Skillに到達する。Carring Skillまで昇華させていると、他の業種や違った環境で仕事をしてもすぐに頭角を現す。逆に同じ業種の同じ職責で転職しても、Carring Skillが不十分なために活躍出来ない事があるのは皮肉な話である。
長年あることを続けていると、そのビジネスに身を置き日々の仕事をすることは、苦痛ではなくなる筈だ。
習慣化して生活の一部となるからだ。その筈なのだが私の場合はまだ十数年しか続けていないので、まだ習慣化するところまでは到達しておらず苦しいこともある。あと十年程続けると楽になるのかも知れない。それを楽しみに続けてみようと思う。
最近のコメント