中国の古語「啐啄」は、卵の中の雛が殻を突くのと、親鳥が外から殻を破るタイミングが一致する事を指す。少しでもどちらかのタイミングがずれると、雛はこの世に生を受けられない。
物事にはそれに相応しい時期がある、と言う。動植物の世界ではごく自然なことだが、自然や環境や社会に生かされている我々も決して例外ではない。生を受ける時、親離れし自立する時、伴侶と巡り会う時、子孫を残す時、社会人として組織や社会に貢献する時、現役を引退する時、死を迎える時、など人生の節目に人は判断を強いられる。しかし、なかなか適切な時期を我々は予め感知することが出来ない。
その適切な時期に相応しいチャレンジが出来る方々は幸せである。一体、そのタイミングはどう計れば良いのだろうか?このビジネスを長年続け、その方にとっての人生の節目のチャレンジに寄り添うのだが、その責任の重大さを考えると同時に、このタイミングに巡り会う人、会わない人の不思議さを想う。動物が本来備わっている直感力や予知能力の名残りは、我々にも辛うじて残っている筈である。周囲の雑音、損得計算、打算、家庭事情など、直感力を妨げる雑音は多いが、「心の声に従う」と言う古きゆかしい方法が、意外に功を奏すのかも知れない。
また、その人の能力や努力とは別に、時期が適切でない為に上手く行かない場合がある。これは厄介な問題で、これに落胆し過ぎてその後の人生も棒に振ってしまう方もいれば、一旦踏み止まり次のチャンスに本来の自分の役割を果たす方もいる。仕事人生がかなり長くなっているので、特に最後のチャレンジとなるタイミングはかなり高年齢化している。ビジネスには、大きく分けて三段階のチャレンジがあると言われる。キャリア形成の「上昇期」「円熟期」そして最後のチャレンジは、「転換期」と言えようか?これは、キャリアの意味を再定義する事で得られる。
「転換期」であり「終焉期」と呼ばないのは、次の世代に新たな価値付けをして引き継いでゆく、という意味を込めている。実はこの時期になって迷われる方々は多い。一旦の仕事の締めくくり方を考えるのだろう。大企業を始めとするのホワイトカラーの分業制が一般化し、仕事の専門性や職人堅気で世の中を渡って行けたひと昔前とはかなり違って来た。また、分業しているので、エンドツーエンドで仕事全体を見渡たし変革してゆく技量もなかなか身に付けにくい時代である。一方、企業の30年周期と言われた企業年齢も昨今は周期が早まりつつある。次世代に合った新たな価値創造をしないと、企業も個人もそのビジネス世界での存続は有り得ない。
変革期に来ているのに、人々は古いビジネス形態に馴染んで来ており、変革のマネジメントの経験者が非常に少ない、と言う妙なバランスになっているのが現代の特徴だ。考えてみれば、いつの時代も変革期はその様なものという見方も出来るが、現代は変革のスピードがまるで違う。しかも、情報格差を武器にする変革と言う要素を含んでおり、経済的な勝者と敗者が簡単にかつ迅速に分かれてしまう事になる。
この転換期の人々は、何かを社会に還元する仕事に従事したい、と言う強い志を持った方も多い。問題は、今まで培ってきた自身のスキルや経験が活かせるのかどうか?と言う点だ。やはり一般的なボランティア的な活動より、具体的に自身が貢献できる仕事であって欲しい訳だ。ここでまた、様々な専門性やプロジェクトで培われた「コアスキルの高さ」が問われることになる。
注目したいのは、シニアに問われるのはコアスキルであり、専門性そのものであるケースは少ないという事だ。コアスキルとは、様々な制約ある環境下で、プロジェクトを推進する力であり、多様性のあるチームを率いて皆のモチベーションを上げる力であり、新規プロジェクトの機動性あるビジネスプランを描き、状況に柔軟に対応して実質的な行動計画に落とし込む力であり、多様性のあるメンバーと楽しくコミュニケーションが取れ、疲弊した者にも一定の配慮が出来る人格である。これに後進を育てる技量が伴えば言うことは無い。皆、年齢を問わず「チームで成果を上げる事」を期待されているからに他ならない。そのコアスキルを持った上で、ある基礎技術やマーケティングなり財務なり製造なりコンサルティングなりの専門性が加わって、人や社会に貢献することが可能となる。専門性のみでは役に立てない事が多い。
このコアスキルを成熟させるのにも、時がある。転職や多様な成功や挫折経験、また良いメンターに出会い、昇華して成熟してゆく。中には専門性はあるが、コアスキルに昇華させていない方々がいる。人生のメンターに出会うタイミングを逸してしまったのだろうか?大変残念なことだと思う。人生の「転換期」を嬉々として乗り切っていって頂く為に、少しでもお役に立ちたいと思っている。
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