今回は永遠のテーマである「目標設定の重要性」について再度確認したいと思う。「目標設定と志の高さこそが、その人生を決定づける」というシンプルな事である。この言い回しは耳慣れているが、それを口にした途端、人は何となく判った様な気持ちになるのである。これが言葉の不思議であり大変恐ろしい側面でもある。さて重要な点は、「目指したゴールまでしか人は到達しない」という事。目指しても到達する保証は無いが、目指さない限り決して到達はしない・・・という、よくよく考えるとコロンブスの卵の様な話である。という事は、能力やスキルまたは資質などが現時点で劣っている者でも目標設定と適切な環境やモチベーションがあればより優秀な者を容易く追い抜いてしまうという事になる。
それでは一見分不相応な目標設定をすればよいのか?そうなのである。むしろ高い目標が設定される事で、その一見高いバーをクリアする為には従来の方法ではとても間に合わぬことを思い知る。不連続なジャンプを要求される事になる。ここが貴重なのだ。
人はその本質的で決定的な重要性を理解しようとしない。但し出来ればその目標は一体何のために必要なのか?・・・という動機付けがあった方が長続きする様な気がする。For the Teamや社会貢献といった自分の利益だけでは無い紐付けがあれば更に達成される確率は高まるだろう。「皆の利益が個人の利益と一致する時、物事は成就しやすい」のである。
では、同じ目標設定をした者同士で成功、不成功のぶれが存在するのはどういう理由か?
スポーツを例にすると話が判り易い。目指すゴール(目標)、すなわち期待する技術レベルによって、練習方法、使う道具、環境、メンター(師にあたる人)のレベルもそれぞれ異なってくる事はよく知られている。ましてや金を稼ぐとするとまた話が違うのである。例えば、プロを目指す練習生は、適切なメンターにつき始めてからわずか3か月~6か月でシングル入りするそうである。平均凡人ゴルファーが20年練習してもシングルになる方は一割に満たないのに、である。その人の資質、その時々の成長ステージに合った環境、メンターなどの存在が成功、不成功に大きく寄与している事になる。誤解を恐れず私見を披露すると、その人のレベル、タイミングを見極めどういう不連続なジャンプをさせるか?というメンターの技量や度量に寄るところが大きい様な気がする。かの天才イチロー選手もかつて仰木監督との出会いなしには、才能を開花出来なかったと言われている。つまり物事の成就とは、「適切に目標設定する事でそれに到る道筋を想定し、然るべき準備と目標レベルにあった適切なメンターや環境を整え、自らを動機付けして努力し続ける事で自ずから達成されてしまうもの」という定義可能なのではないだろうか?
一方、仕事や自身のキャリアに関する目標設定は曖昧である事が多い。確かに環境も自ら選べぬ事も多く、自分のキャリアを「自ら意識して築く」という感覚が持ちにくく、到る道程や環境も明らかでないことが多いジャンルである。しかしながら、その対象に人は人生や自分の生きがいや家族との生活を担保し、長い長い数十年という歳月を過ごす・・・という構造になっている。どんな仕事であっても、世に出れば、「その道のプロの仕事人」として扱われるのである。まだ素人なので会社を潰してよい経営者など世に存在してはならないのである。多分、企業組織から求められるある部署でのゴール達成サイクルと、個人のキャリア・サイクルにはかなりのずれが生ずるのが主因ではあるとは思う。しかし、だからこそ「自ら意志しキャリアを築く」という感覚を持たない限り、組織の都合に流され気がつくと確固たるスキルの醸成も無いままシニア年代を迎えることになる。
だからこそ、適切に目標設定をすることの重要性は強調して強調し過ぎることは無い。それと不思議な事に「優れた者は優れたメンターを呼ぶ」ことが多い。良きメンターは社会の宝であると思う。大切にしたいものである。
最近、転職をまだ前提にはしていないが、自分の仕事の目標をどう設定したい良いか?また、自分は目標に対して正しいキャリアステップを歩んでいるか?などについて真摯なご相談を受けるケースが多い。これらの相談に対応するのも我々エグゼクティブ・サーチならではのサービスではないか、と最近思っている。何故ならばベンチマークするべき実例に数多く接しているからである。また一方で、目指す目標が如何にも高いと、今度は自分に制約の枠を嵌める方もよく目にする。自分で自分の潜在能力に勝手に限界を設け、言い訳(Excuse)を考えるのに精力を費やしている人々である。本当に勿体ないことだと思う。
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