1 志と実践
これはどこで読んだ言葉だっただろう。最初、意味が分からなかった。一流とは、志があり実行力も伴う。二流とは、志はなくとも実行力がある、三流とは、下手な志があり実行力が伴わない、四流とはどちらも無い、と言う分類の中で、四流でも偏見無く、四の五の言わず実行出来る素直さを持っていれば、理屈をこねて実行しない三流より余程ましである、と言う様な意味だった。
耳の痛い話である。
2 志は確かな知恵の集積である。
さて、志とは何か?辞書には、こうしようと心に決めること。とある。従って、自発であり、与えられる情報で形成されるものではない。与えられるフロー情報や、経験の中から自分で咀嚼し工夫して獲得した情報を、真の知恵や知識に転化する作業が必要となる。その上で、それが信念や哲学の様な確固たるものに醸成されるプロセスを経て、初めて志の様なものになる。従って、志とはそう簡単に得られるものではない。
3 実践を通した知識
その上で、なおかつ実践の尊さは、時に志に勝ると言っている。能書きで四の五の言うだけの者は、実践のみの二流に負けてしまい、三流となる。今の時代はちょっと油断すると三流にも四流にも落ちこんでしまう時代でもある。ITの発達で、情報発信の主体が個人になっても、実践を通して知識を発信しているのはごく少数の人々である。新聞やニュースは主にフロー情報を扱っているが、社説やコラムなどで知識や知恵を発信するのは、そういう背景である。インターネットのフロー情報だけで、知識、知恵を蓄積しないと、様々な無責任な情報に左右され右往左往してしまうのである。
こんな当たり前の事を敢えて書くのも野暮だと思うが、今の日本人には昔で言うところの賢者が少なくなり、政治、経済、教育、芸能それぞれの分野で危ない人々が増えて来ている様に感ずる。
4 逆転も起こり得る。
体力と気力に溢れた二流に、三流は簡単に駆逐される。下手をすると本質一流でも、短期決戦では元気で単純な二流に負ける事さえある。二流に本来の力を発揮出来ないで、一流が負けるケースはどの分野でも散見される。問題なのは、二流が成功や挫折の実績を積み、それにあとから志を得て一流に昇華してしまうケースが多い事である。こうなると、一流はなかなか太刀打ちが出来ないのである。
先日、全豪テニスを制した大坂なおみ選手も、国籍は日本人だが、日本人離れした体躯でアメリカで揉まれ、荒削りながら柔らかくパワフルなテニスを手に入れた。それに、メンタルの制御など、何らかの「志」を得るきっかけがあったのだろう。一気に超一流に登り詰めてしまった。これも潜在的なポテンシャルを持つものが、一流に昇華した好例である。
5 昔の格言が通用しない。
「柔よく剛を制す」とは柔道の言葉だが、昨今のパワーゲーム優勢の世界では、ビジネス、スポーツ、政治、アカデミアまで、残念ながらこの格言はごく限られた分野にしか適用出来なくなってきている。
従って、凡夫の我々は、今あるレベルがどうであろうと、気力、体力の減退を防ぎ、その世界の実践で揉まれ、志を常に新たに、自身の技量の弛まぬ研鑽が必要である。それが無いと二流の者にも太刀打ちが出来なくなる。常に現役でいると言うことは、そういう事なのだろうと思う。
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