1 動機がどうであれ。
動機がどうであれ、成果を出している人が存在する一方、動機が高尚でも成果を出さない人もいる。この現象を私は面白いと思う。凡庸な動機で始めた仕事の中に、身を正す様な真理を発見して、その驚きがその人の仕事への価値観を形成する事もある。人は職業を選択する際、会社のビジョンや転職の動機等に気を取られ、候補者に取り一見理想的な転職環境がネガテイブに働く事も、その逆もあり得るという事は想像出来にくいだろう。
2 何故、現職のエースが転職するのか?
例えば、クライアント側の人材要求に応え、広い市場からその分野でのエースを発掘する。候補者は現職のエースなので転職など想像もしていない。現在成功しているのに、違った環境で企業の立て直しに挑んでみてはどうか?という訳だ。リスクもあり人脈も無い中でのチャレンジである。
この様な状況から転職を決意する方は極々少ないだろう、と想像されるかも知れない。しかし、不思議と我々がターゲットにした方々の8割近くは転職されている。我々もクライアントも候補者にとってのキャリアを考えながら懸命に候補者を説得するのだが、それ以外に何か大きな力が働いているとしか思えない。想像するに、クライアントも候補者も我々も、それぞれに「その仕事の本質を見ることができない」ことが大きく作用しているのではないか?と最近考えている。
3 チャレンジへの潜在的な欲求。
芸能、スポーツ、ビジネス、学術、それぞれに我々はその本質や技術の奥義を分からないでやっている。これは不思議なことだ。時折、あるきっかけで真理を垣間見る事はあっても、分ってやっているケースの方が少ない。分からないので、自分のポテンシャルを信じ、未知の世界へのチャレンジへの潜在的な欲求を抑えられないのだろうか?全て分かってしまうと、先見えしてしまい、怖くてチャレンジ出来ない、或いは馬鹿らしくて出来ない、という事もある。逆に分からないから、未知の分野を切り拓いて来れた、とも言える。
4 分かるとは稀なことである。
分かるとは不思議な現象である。我々は分からない事をはっきりと分かる事が出来る。ギリシャ語にユリーカ(分かった!)、という言葉があり、アルキメデスが定理の着想を得た時、風呂に浸かりながら、ユリーカと叫んだのは有名な話である、分かるという事が稀な事を古代の人々は認識して、特別な言葉を与えたのである。本当に分かるという事は滅多に訪れることの無い経験である。
5 分からない事を認める力= 無知の知
生命、宇宙などの科学や物理の分野では、真理の追求は当たり前の事だ。分からない事自体が大きなモチベーションになっている。現状はそのほんの一部に光明が当たって来たに過ぎず、未だに分からない事だらけである。
経済活動やビジネスついても同様だ。時代の変遷期でもあり、ますます複雑化、グローバル化して、成功、不成功の鍵が何かは覚束ない。しかし、何故か分からない事を素直に認めようとしない一般的な風潮がある。何事も短兵急に分かったつもりになり結論を出したい。仕事やビジネスは我々の生活の糧でもあり、分からないとは言えない事情もある。二千年も前ソクラテスは「無知の知」を唱え、深く考えること、すなわち哲学の道筋を開いたのは、遠い昔からこういう事が繰り返されて来たからに違いない。
6 トライアンドエラーを素早く回す。
これはどういう事かと言うと、複雑でダイナミックに変化する現代社会におけるビジネスでの成功、不成功は、机上で考えたものがすぐには役に立たない為、トライアンドエラーで戦略と実践をスピーディに回し修正してゆく必要がある事を示唆している。この原理の一部を捉えた企業が一気に市場を席巻する。ただそれも30年周期説(最近はもっと短くなっている)の通り、通用する賞味期限がある。
昨今、経営指標から判断しても厳しい状態に陥っている老舗大企業が散見される。経営指標とは、成長率、資本回転率、利益率、フリーキャッシュフロー、株価、時価総額、顧客満足度、などである。経営者こそ分からない事を認めていく作業が必要だ。我々の仕事は黒子に過ぎないが、そのサポートをしていくことかと考えている。分からない事を深く認識して、考え得る仮説・検証作業を素早く回すのである。分からない事は経営者にとり恥ずべき事では無い。分かった振りをして、ステイクホルダーや従業員を路頭に迷わせてしまう事こそが恥なのである。
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