我が社には、候補者が決定するとペンにイニシャルを刻み贈る習慣がある。この場合、例外を除きボールペンとなる。昨今、非常に高価なものもありびっくりする。私は過去に有名ブランドのボールペンはほぼカバーし、使い込んできた。拙い経験だが、私の観察では、パイロットの一万円のボールペンが現在のベストである。フォルム、品格、重さ、持ち心地、書き味、インクのボタ漏れ無し、コスパを含め素晴らしい。モンブラン、ペリカン、ウォーターマン、パーカー、デュポン、カランダッシュなどは全て試して来た、この中ではデュポンが秀逸だったが、使い込むとインクのボタ漏れがあり、やはりパイロットに戻った。ペン先に独自の特許を持っており、非常に滑らかな書き心地である。最近、工芸品の様に精密に細工された数十万円のものもあるが、実用品からは外れ、完全に趣味の世界に属するものである。
私はペンが好きだ。筆、万年筆、ボールペン、鉛筆と過去50年間余もお世話になって来た。それらはものを書く、考える道具である。最近は万年筆で手紙を書くチャンスも減り、もっぱらボールペンを使う頻度が高くなった。私の場合、ものを考える時には、4Bの鉛筆で罫線の無いクロッキーノートに書くことが多い。4Bの鉛筆はすべりが大層良く修正も容易で気軽である。罫線が無いと何か自由な発想がし易い気がする。文字も図も自由に描くのだ。ボールペンは専ら面談メモや議事録メモに使用する。後に証拠が残り改ざんしにくい用途である。万年筆はサインしたり、改まった手紙を書く用途に限られて来ている。残念ながら、筆の登場場面は、冠婚葬祭の記帳などの他は本当に稀になって来ている。
筆記具には、文字で相手にメッセージを伝える機能と、考えを纏めたり、何かを創造したりする機能がある事は、案外見落としがちである。確かに何かを考える時、ペンを持っている事が多いが、ペンが考える為の道具だと明確に認識している人は少ないのではなかろうか?最近はパソコンの前に座ったり、スマホを片手にものを考える人も出始めているかも知れない。しかし、ペンはそのものが考える道具へと変貌を遂げている。何故なら、纏まらない考えや事象をメモしたり、図示化したり、また分解してみたりして、行ったり来たりする。自由に落書きする事で、考える道具へと進化してきたと推測される。
職業柄、クライアントのトップに自筆の手紙を書くチャンスは、まだ時折ある。PCにて事務要件を簡潔にまとめることに慣れてしまうと、さて、手紙はどう書いたかな?と戸惑うことがある。よく末尾に「要件のみにて失礼します」、と書き添える事がある様に、本来手紙とは要件のみでは失礼であり、また、長過ぎても退屈であり、気の利いた手紙を書くのは意外に難しい。葉書となると、人に見られるので、当たり障り無く、また簡潔で心のこもった真意が伝わる内容を吟味する必要がある。葉書の難易度は高い。
昨年、NHKのドラマ10で小川糸著「ツバキ文具店」をドラマ化したものの放映があり、代書屋が他人様からの依頼で手紙を書くという設定で、様々なシチュエーションでの手紙、葉書の書き方、筆記具や便箋の選び方、それに纏わる人生の機微が巧みに描かれていた。「字とは、その人の人生そのもの」という言葉があったが、何か妙に気が締まった気分になった。また、小説とは言え、一本の手紙が人の人生を変えてしまう、という事も臨場感を持って伝えられており、ロケ舞台の鎌倉という土地柄だろうか、何か時間がゆったりと流れていて心和んだ記憶がある。何か気持ちが急いたり、落ち着かない時の特効薬として、DVDを購入してしまった程だ。
現代人は、四六時中Eメールに追いかけられている。Eメールでのビジネス文書やラインなどのチャットに慣れてしまうと、言葉を選び、筆記具や便箋を選び、メッセージを郵便に乗せて、静かにゆっくりと発信するという機会が減る。話し言葉も速く粗雑になるのである。これは最近、社会全体が粗雑になりつつあるのと深い関係性があるのではないか、と思う。人の生活や生活のテンポ、ひいては生き方にも影響がある様に思える。言葉を軽視すると、後で飛んだしっぺ返しを喰らう。注意が必要である。
人は本来ペンを持ってある考えを言葉を選び、それを先鋭化し、コンセプトを作ったり、創作したり、人にメッセージを発信する。「想いを言葉にし、言葉を形にする。」これは、人が何かを考える際、時代を超える普遍的な思考パターンであり、それを下支えしてくれる気に入った筆記具と、これからも大事に付き合ってゆこうと思う。
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