今年は久々に人の善意にも悪意にも多く晒された年周りだった様な気がする、というと如何にも大袈裟だが、ビジネス、プライベートとも大きなポジティブな事もあったが、その振れ幅に呼応する様にネガティブな事もあった。プラスに大きく振れればその分マイナスにも振れる。それでバランスを取っているのかも知れない。ネガティブの中には、通常のものと少々異なり「何かを貶めようとする」人の作為を感ずる事も経験した。身から出た錆びとしか言い様がない。だが、10年以上も社長業をしていると、利害のコンフリクトはあって当然とも言える。人の善意にも少なからず出会っている筈で、自分の都合の良いことは見逃しているだけなのだろう。常々不思議に思うのは、崇高な善意も醜い悪意も、時として同じ人物から発せられる事である。人は元々矛盾に満ちているのは承知だが、これ程までにか?と驚嘆し、自分は大丈夫かと自省する材料となった。過剰な善意は凶器と化す可能性もある。ストーカー被害もそのジャンルだろう。SNS利用の広がりも、個の独自性をサポートしているようで、実は個の喪失を助長させているのではないか、という内容を前回のブログで書いたのだが、何事もトレードオフであるという事だ。
悪意にもいろいろな形態があり、その判別には一定の訓練が必要だ。善意の衣をまとった悪意も、その逆もあり得る。悪役の男優が時折見せる善意はなかなか味があって良いものだ。従って、善意のイメージが強い人が悪を成すよりも、その逆の方が余程イメージが良い事を承知して、日頃は悪ぶっている善人もいる。人は複雑である。
悪意と善意は、好き嫌いとも深く関係している点も見逃せない。人は放って置くと、好き嫌いで何をするか分からないので、古人はその抑止力の醸成を画策した。人々の凶暴性を鎮める為のコロシアム競技や、精神的な支柱を確立する為の哲学の奨励、美的感覚の目覚めの為の芸術、芸能のすすめなどである。
逆に言えば、日頃から意識して教養や哲学を研鑽しておかないと、好き嫌いと損得勘定のみで行動する「烏合の衆」として飲み込まれ、それを扇動して、「利」を得ようとする輩に上手く利用されてしまう。「善悪」「好き嫌い」「損得」のON.OFFで何事も二律的に判断する集団である。昨今のGAFAの台頭は、それを利用した典型的な事例ではないだろうか?そういうITツールを使う事で、そのニ律的な発想傾向が助長されてしまう、という面もある。ある方向性の類似情報を次々と見せられると、「もういいや」と判断能力を失ってゆく現象である。私の仕事は、人の人生の要所に関わり何事も二律的には判断出来ない事が多く、白に近い灰色、黒に近い灰色、灰色などから、多様な判断が必要で、少々違和感がある。ニ律的に判断する事は、言わば「自分で考え、行動する」事とは対極にある発想である。
この30年間で日本のGDPは、2位から27位に転落し、先進国では最下位だそうである。ある著名な情報サイトのエッセイに、平成の30年間の日本の衰退の原因を、1)新しいテクノロジーへの適応力の無さ、2)長年の政治体制の不毛、3)精神性、思想性の欠如の3点であると指摘するエッセイが掲載されていた。この真偽は別として、3番目は非常に気になる点で、思想性というと、やれオウム教であるとかで倦厭感が先に立ち、思想性を自分なりに追求する事が、今の風潮にはそぐわないかの様な風潮がある。ポストニューモダンは、こういうジャンルの考え方で、それはそれで一つという調子で、何事も皮相的な解釈で片付けて、自分はニュートラルと決め込む。分かってもいないのに、分かったふりをして、体面を保つというレベルの日本人が増え、独自の発想や意見もone of themとして受け流し遠ざけてゆく。「自分の頭で考え、リスクを負って行動してみる」のが思想性や哲学であるとすると、ほど遠い状態の様な気もする。その結果、世界に冠たるものが、この30年で日本から消え失せてしまった、という理屈である。自分もその一端を担っているので、他人事では無いのだが、この様なノンポリ集団が社会を変革するようなイノベーションを起こせないのも残念ながら納得性がある。
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