100回目のブログとなった。もともとWeb上の弊社のヒット率を高める目的で始めたブログではあるが、8年目を迎えた。これを機に七転八倒ものを書いて来た感想を「10箇条」にまとめてみたい。
第一、伝えることの難しさ:
自分の書きたいことを過不足なく伝える事の難しさである。誰にも分かる簡潔で正確な文章を書くことは思いの他難しい。書き過ぎたり、説明不十分だったりする。Facebookには長過ぎると言われて久しいが、一過性で流れてゆくFacebookの画像情報の中で、文章に拘った読み物を目指したかった。 正確に伝えるのさえ難しいのに、それにエンタテインメント性を盛り込むのは素人には無理な相談である。厚かましくも100編も書き続けたものである。
第二、自分を曝け出す作業:
曲がりなりにも素人なりに「自分の文体」を持たないとまずいのである。文体が定まらず、これでも悩んだものだ。ただ、テクニック面は置くとして、ものを書くことは「自分をさらけ出す作業」であった。テーマを替えその事象について書くのだが、結局のところ自分自身を描いていることになってしまう。「文は体を表わす」と言うが、その書き手の考え方に留まらず、好み、性格、価値観、品性などが全て晒されることになる。こうとしか生きられない自分と向き合うことになる訳だ。脂汗が出てくる。これは意外にも骨の折れる作業だった。
第三、おだてに乗ること
ある程度気持ちに余裕が無いと書けない。七年間の中で精神的に追い立てられている時には、筆が止まっている。何回か止めてしまおうと思ったが、何とか続けて来た。その要因を考えると、素直におだてられることである。筆が止まりそうな時、ごく少数の熱心な読者から「お元気ですか?またブログの更新を楽しみにしています、」とか、「今回のは格別に良かった。明日からまた頑張れそうです。」のようなコメントを頂戴すると、書かなきゃ、と思うのである。単純なのだが、そのベタな想いがブロクを続けさせてくれた。大人の関係の中でも、素直に褒め、素直におだてにのることは、思った以上に大切なことであった。
第四、客観と主体:
自分を客観視することはことのほか難しい。好運は当然でありすぐ忘れてしまう。不運は何故自分だけがとか、理不尽だとかいって腹を立てる。ゴルフがまさにそうだ。あまり客観視し過ぎても批評家のようでしっくりこない。客観視する目を持つが、何事も主体性を持ち朝時にはリーダーシップを発揮したいものだ。もの書き巧者は、この客観と主体のバランスが素晴らしいのである。徹底して冷徹な目と気さくで時には無頼な自分を曝け出す部分が見事に同居し、それが一つの魅力を形成している。傍目にはそんなことではないかと想像できるが、これを自分で演ずるとなるとこれがまた難しい。
第五、ネタ切れ:
ネタがすぐ尽きるということだ。気がつくと同じようなテーマを行き来しがちで、ネタ収集の為に普段からメモを取っておかないと、すぐ忘れてしまう。従ってスマホのメモ帳のヘビーユーザーとなった。ただ本質的には、借り物では無い自身の実体験の裏付けなり蓄積なりが必須であるのだが、商売柄、コンフィデンシャルなものばかりで、実体験をそのまま書く訳にはいかないケースが多いのが悩ましいところだ。
第六、着想と視点:
「着想の良さ」が無いと持たないということだ。言い換えると、あっ、そんな考え方もあるのか、という「新しい視点の提供」である。これが出来ているかどうかは別にして、この為には日頃の情報収集と発想の訓練が欠かせない。1)多面的に物事を考えてみる、2)巨視的な観点に立つ、3)もっと対象(個)に迫るなどの工夫が必要だ。出来ればその発想を裏付けるユニークな実体験があれば説得力が増す。ただこれはかなり難易度が高い。何故かと言うと、人はその人のもつ物差しの範囲でしか、ものが見られないからだ。良い着想や視点を得るために最も訓練しなければならないのは、自身の「目の昏さ」をどの程度正確に認識するか、という事なのかも知れない。
第七、思い通りにはならない:
七年間様々な体験や他人の人生を身近で垣間見て来て、人生には思い通りにならないことが多いのだなぁ、ということ、また、想像もしなかったどんでん返しも人生には明らかに存在するのだなぁ、という感慨がある。予想通りになるわけはないのだが、それにしても「人の目の昏さ」には今更ながら驚くのである。若い時は「成せば成る」という感覚が強く、すぐ白黒を付けたがる体育会的な幼稚で嫌な奴だったのである。今は少しはマシになった。というか、物事をよく見つめてみると、そう簡単に割り切れない事だらけなのだ。灰色に近い白や黒は日常茶飯事。善悪で割り切れない事の方が多いことに気付く。
第八、知恵を育む:
100篇書いてみて、少しは人間的に成長したかもしれない、ということだ。「ものを書く」という行為は、人を変化させる。何故ならば結局自分を曝け出すことで、内省するからである。また、知恵の進化はものを書くことと密接に繋がっている。これは何度も繰り返し言わなければならない。頭に浮かぶある考えやアイデアを図示したり文章に起こしたりする、または、文章を読んでそこから想起される自分なりの新しい展開を文章に起こすなど、前頭葉の働きが、「データを情報」に、「情報を知恵」に昇華させる。テレビやWebなど映像化された受動的な情報収集では、知恵の形成は期待できないのである。
第九、ものには時がある:
50歳を超えてから書きだしたのには、それなりの意味があったのではないか、ということである。
凡夫である私のような者でも、50歳を超えた時点で様々な事象がある方向に収斂されて、本質的な部分での共通点を見出せるようになる。歳を取ることの楽しみの一つであり、その様なタイミングでブログを書く環境にたまたま出会ったのである。私は「ものには時がある」という言葉が好きだ。すべての物事には適切なタイミングなり、あることを成す適切な年齢があるという意味である。
第十、言葉は命:
これで終わりにするが、やはり言葉は命である、人は死ぬと分かった途端、快楽でも富でも名誉でも愛でもなく、「本質的な言葉」を求めるのだそうだ。迷える若い人々が簡単に宗教にはまってしまうのも、言葉の力である。何かにすがりたいのか、自分が生きた意味を問いたいのか?何かから救われたいのかは分からない。始めに言葉ありきで、ある「意図」や「想い」がものを表しめたとすれば、死に際に生の象徴である言葉を求めるのも合点がゆく。
ということで、100編目もやはり長くなってしまった。失礼!
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