1好き嫌いの謎
2ヶ月ほど犬に親しく接する機会があり、犬の好き嫌いがはっきりしている事に驚かされた。食物を鼻面に持って行くだけで瞬時に好き嫌いを判断する。散歩中も出会った人、犬への明確な意思表示も明確だ。これは、どこらか来ているのだろう?考えてみれば、人の好き嫌いもその人の人生に深く影響を及ぼしている。好みや主観で判断するなど、理性的な方々から、大人気ないとのお叱りを受けるかも知れないが、この情動的な好き嫌いや、人の好み、趣向には独特の存在感があり、まだそのものの仕組みはまだ解明されていない。私自身はこの人の縁を繋ぐ仕事に携わって長いが、つくづくこの好き嫌いが世の中の国際間の交渉事、企業の組織、人事を動かしている様な気がしている。
2好き嫌いは個人のものではない。
その人の生きて来た環境は、後天的に人の好き嫌いに影響しているが、そもそも先天的な遺伝子や免疫レベルの原子性で、人の趣向は形作られている感が強い。免疫機能は昨今、人の生命の根幹の役割を担っている事が解明されて来たが、体内に入ってくる「自分とは異質なものを排除する」基本機能は生まれながらに備わっている。これも自然の作った好き嫌いと言える。好き嫌いは、個人のものではなく、既に人知を超えた、「大いなる力」であるかも知れない。その人に何故その好みがあるのか?は説明不能だ。また、でなければどうして、人の縁の同質性を説明できるだろう?心清らかな人は清らかな人と、偏屈な人は偏屈な人と、山師は山師と出会い繋がってゆく。以前、「命の器」というある作家のエッセイから引用したが、この出会いの不思議さは偶然などでは無く必然であり、人生のコアな価値観が共有出来る相手を無意識に選んでいるとしか思えない、と指摘されていた。芥川龍之介がかつて「人生とは性格である」と看破した事にもどうやら符号する。好き嫌いはどうやら自然の営みそのものである様な気がする。
企業や個人の重要な意思決定の場面でも、理性的に論理的に選択のオプションを絞込むが、最終的な判断には意思決定者の好みが現れてくる。あのカルチャーが生理的に合う、合わない、自分の生き方に合う、合わない、あの人の部下になるのはどうも・・・など。これまでの人生の節々で好みを選択して来た結果、現在の企業や自分があるという意味では、好みの集積がその企業や人を形作っている。
3恐ろしい偶然性。
また、人は自分の人生を、自分の力で生きてゆく、と信じて疑わない方々も多い。果たしてそうなのだろうか?好みも含め「自分」とは大いなる力の作用したものであり、個人にコントロール不可能なのではないか?むしろ、大いなる力に「生かされ」紆余曲折の人生を何とか歩み、そして死んでゆくと考えた方が自然である。特に私は人とのご縁の取り持ちを生業にしているから、この感が強いのかも知れない。勿論、個人の努力を不要であると言う意味ではない。自分が望んだわけでは無く、ある男女の好き嫌いでたまたま「この時代」に生まれ出て、身体的な特徴を持つ「この身体」に、独特の好き嫌いの構造を持つ「この精神」が宿っている。この偶然性はほぼ奇跡とも言える。その人間は、その後の様々な環境の中で揉まれ、人と出会い、流されて、現在の自分があり、「ある仕事」で生計を立てている。この先、この様に生きるんだと力んでも、また大きな環境の変化でどうなるかは分からない。諦観で言っているのでは無く、事実その通りなのである。
4ビジョナリーな経営者。
その様な偶然性の中で、現世で大きく成功される方と、そうでない方が双方存在するのはある納得性がある。これ程に多様な個性を、企業側あるいは顧客のニーズに適合させ、同じベクトルに向かわせるのはかなり困難だからだ。より適合性の高い人種、あるいは近い将来への先見性があるものが、普通の人が気付かない当たり前のイノベーションを起こし、世間で言う成功者になるのかもしれない。先見性のある経営者をよくビジョナリー(Visionary=景色が見えること)と呼ぶが、自分の進む好みの方向性を具体的な景色にして人に伝え鼓舞できるリーダーであり、ごく少数の人種なのだろう。その割合は1対99よりも低い確率で、たまたま成功者がごく少数いるに過ぎないのかも知れない。金融資産額で考えると幾何級数的な格差が既に存在している。ただ、果たして何を成功と定義するのか?も実はよく考える必要のあるテーマではあるが・・・。
そう考えてゆくと、思い通りにはゆかない人生を、そう悲観するでもなく楽観するでもなく、「今」の自分を生きてゆくより他はない、という当たり前過ぎる事実に突き当たる。ただ暗い顔をしても明るい顔をしても大して結果は変わらないのなら、明るい顔をして生きてゆく方が望ましいのだろう。
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