昨今のサッカーのワールドカップは、混沌とした環境変化の中で、それぞれの国が弛まぬ研鑽の上4年後に激突し、その結果が専門家の予想を大きく裏切っているところが大変興味深い。私はアマチュアとしてグローバルでの戦い方の変貌に驚いている。NHKが「スペイン、その強さの秘密」を大会直前に放映し、そのスペインが惨敗した。専門家でさえ予測不能な競争環境の変化が実在するのだなあ、と思う。
ある著名な作家のエッセイに、「晩年になって分かったことは、自分がこうと思い込んだことの八割方は間違っている、と言うことである。」というくだりがあるが、最近なるほどだなと感ずる。熟年になり多方面から見る目が育ち、自分の目の昏さを再認識するということなのだが、一方で、自分の立ち位置や今後の動向が現代ほど判りにくい時代はないということでもある。世の中はますます混沌として加速し、複雑な均衡の上に辛うじて成り立っている。現代の国際関係などは良く分かる事例だ。10年のスパンでも明らかだが、20年のスパンでみると「時代が様変わり」している事に驚く。時間の経過と共に、事態も環境も変化し、自分自身も変化してゆく。ちょうど螺旋状の絡まりの中で、立体的に共鳴したり反発したりしながら存在している。
しかも、リアルとヴァーチャルな情報が錯綜している世界が現代である。なにが現実なのか、実体験を伴った経験や知恵なのかは分かりにくい。「この世界の混沌を認識する。」という作業はなかなか難しく、その難しさに気付いている人はまだ少ない。一つには人間は動態変化の中の自分や自分の生活、仕事を認識しづらいからだろう。日々の生活は変わらず、ある一定期間継続すると思い込む。日常の継続性は我々にとって意外にも重要で、これを乱す要因を出来えるだけ排除しようとする。
ところが現実は、安定はある日突然崩壊する。この瞬間を切り取っても、世界中のどれほどの方々があらゆる目に会っていることだろう。政治家はいとも簡単に安心や安定を約束するが、一見安定しているのは、仮初めの人生の中でたまたまある偶然に過ぎない、とも考えることも出来る。人は皆、先入観からなかなか逃れられない生き物で、独自のバリアを張って生きている。自分のこととして降りかかってこないと、分からないわけである。
さて今回「大人の判断」ということについて考えたい。この大人の判断が出来る日本人が自分を含め最近めっきり少なくなっている様な気がする。こういう複雑な環境にいることを深く認識した上で、常識に囚われない自分のスタイルを持ち、物事の本質を見て淡々と生きる。そういう見識ある大人でいたいと思う。具体的な人物のイメージを描くのは難しいが、例えばサッカーの日本代表の監督もされたイヴィチャ・オシム氏である。あの眼がいい。あの言葉がいい。今回のワールドサッカーに母国の選手団を送った苦難の経緯をまとめた放映を見て、ますます好きになった。要は「大人の判断」が出来る人物はますます限られ、大人の幼稚化がかなりのスピードで進行している。
その理由として、まず情報をどう捉えるかが難しい。私見ではあるが、昨今、目から入る映像情報、Web上の一過性の情報がかなり危うい。また、本質的な情報を伝えるべき「社会の公器」の筈の今の新聞やマスコミの情報も、国内需要に頼り切って発展してきたので、グローバルな観点が乏しく「著しく内向き」な様に見える。また、「便利の代償」という事がある。我が国では一世を風靡しているコンビニの即席食品も、新鮮な食材を一気に全国一万点に及ぶ津々浦々の支店に届け最低3日間は保存を利かせる、という難題に取り組んではいるが、本来保存剤を含め体に良い訳がなく、インスタント、コンビニ世代の若年老齢化の実態が徐々に浮彫りにされつつある。インスタントな衣食住を通して、自分でものを深く考える習慣がなくなる。何でも簡単に揃ってしまう事が当たり前になってしまう。物事のEnd to Endが俯瞰できず、他人のお蔭で自分が得ている利便を当然と考える、またすぐに黒白を付けたがる傾向も危ない兆候だ。TVの向こうの映像を自分は安全な環境で見て、「分かったつもり」になる、経験知が薄くなかなか本来の知恵が育まれない。
「賢者は歴史から、愚者は経験から学ぶ」という言葉があるが、そうなのだろうか?究極的には、人はやはり自分の体験の中から得た尺度でしか判断できないと思う。経験から学んだ「自分の尺度」を読書などを通して多面的な教養に変換することで、どう広げられるか?は永遠のテーマであろう。もともと一回性の人生なのだから、体験の伝承やノウハウの蓄積が無くとも不思議ではないが、悪い事に、文明は進歩しているが、知恵や精神性は退歩している様にも見える。
ただ、免罪符として、加齢に伴う体力の減退に反比例して精神の熟成が行われるらしいところは興味深い。我々中年以降は、当たり前の事が出来なくなってくる。そこで初めて当たり前なことが出来る幸せを認識出来る。平凡の中の非凡さを知るのである。「全力で走る、満腹に食べてもたれない。物忘れしない。すぐカッカとしない。異性としての魅力を何とか維持し老け込まない。朝のお通じを含め新陳代謝が良い。一日に一回大笑いする。時には哲学的にも考えられる。」これらが問題無く出来なくなりつつあるので、出来る事の幸せを最近考える。まして「知的作業で価値を提供し対価を頂ける」、などということは、心、技、体が一体とならねば出来ない事だ。殆ど僥倖と言っても良い。こういうことも、中年以降にやっと獲得できる知恵であり、「大人の判断」の一部なのかも知れない。
私の尊敬する作家の言葉である。
「日本の戦後教育が果たさなかったものは、善か悪かではなく、多くの場合、善と悪が混じり合った不純な選択しかあり得ないという大人の判断を養うことであった。いい大人までが、理想論でものを言う。それを本当は幼稚と言うのである。私達は理想を目指す。しかし現実は決して理想通りになり切れないことを知っている。そこから、ためらいも、羞恥も、寛大も、屈折も、悲しみも、許しも知った大人の感覚が生まれるのである。」
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