人の欲望は際限がなく「要求する」だけでは決して満足は得られない。何かを人に「与える」ことが出来て初めて人は真の満足を得る、と言う。「与えると得る」というある作家の言葉に初めて出会ったとき、私は何か殴られたような感覚を持った。損得だけで生きているわけでは勿論ないが、そうはっきり言われると驚いてしまう。Serveという言葉も同様で、光栄な行為であると同時に、満足と精神の自由をも獲得できる数少ない行為の一つである、と言う。
米国赴任時に米国人から、米国ではビジネス、ファミリー、地域社会の三方への貢献(Serve)が出来て初めて一人前の大人と認められる。日本人の仕事が出来れば良いという考え方は幼稚である、という主旨のことを指摘され狼狽した記憶がある。権利と義務の関連性は、民主主義を戦って獲得してきた人々にとって、当然という感覚があるのだろう。日本では戦後改めて与えられてしまった感があり、Give and Takeの片方を忘れてしまうリスクがある。英国には執事Servantという仕事が昔から存在し、主人と優秀な執事との関係は、上下関係はあるもののお互いのリスペクトの上に成り立つ大人の関係のようだ。ここにServeという言葉の本質が隠されている気がする。滅私奉公ではなく、Serveされる側もする側も一定のリスペクトと自立性を持っている。そしてする側が提供する献身的で具体的な行為に、される側が価値を認める良好関係という事が出来る。
そもそもServiceという概念は、自給自足経済や第一次産業が主流の時代にはまだ希薄で、第二次産業や第三次サービス産業が主流になるにつれて徐々に発達してきた。日本ではつい最近まで第一次産業が主流であり、第二次産業の急速な発展により、良いものを作れば売れる信仰を長く引きずって来た日本人には、サービスだ、マーケティングだと言っても馴染みにくいのかも知れない。
ただ、最近気になるのが、一部の日本人に、利己主義の塊のような人々(子供のような大人)が発生し増殖し始めていることである。老若男女を問わず、というところが怖い。何事も損得でしか考えられない。自分の事にしか関心がない。被害者意識が強く打たれ弱い。自分都合で人からの信頼を裏切ることに頓着がない。彼らが得ているすべての利便というものがどこから来たのかは、一向に考えない。
日本という恵まれた国に生かされている以上お返しに働く義務」があり、でないと権利だけを主張出来ないし、そもそも成り立たない。仮に国民の大多数が生活保護というのが成り立たないのと同じ理屈である。国家から受けるのは当然の権利です、とはよく聞く言葉であるが、市民の権利とは、受けると同時に誰かにServeするという両面を持っている。何故なら人には何かの取り柄があり、自分を生かすと同時に人をも生かす事が出来るからである。そういう意味で、Serveは奥の深い素晴らしい仕事と言える。
私の仕事を通しての実感だが、45歳ぐらいを境にして、これからの人生を「受ける」側から「与える」側へ転換しようとする方々が増えているような気がする。これはこころ強いことだ。今まで受けてきたことを何らかの形で世に返し(Serve)たい、そのような仕事がないだろうか、というご相談をよく受けるのである。何らかの形で世に返す事は現職のままでも出来そうな気がするが、社会的な貢献をより実感できる仕事を求められる気持ちも解るような気がする。
ただ、ボランティアでない限りビジネスであれば、Serveすることで受ける側が価値を認め、相応の対価を払う、いわゆるCashを生む事が無ければ成り立たないところが、難しいところである。私共の仕事で考えると、我々のビジネスには大きく2方向に顧客が存在する。候補者と顧客である。その2方向にServeする事なのだが、徹底的にServeしてみないと受ける側は当然と感じてしまうのである。①当然と思う、②ある価値を認める、③Serveした内容に感激してある行動を起こす、この①~③には実は大きな乖離がある。ビジネスで困難に遭遇した場合、多くの場合自分の顧客へのServeが足りないことが多いのである。耳の痛い話である。我々のビジネスの成功の秘訣は、候補者と顧客に自分のファンを作る事である、とはよく言われる言葉である。顧客にファンが存在すると本当に助かる。もう一人のコンサルタントとして我が社の為に動いてくれるからである。実践は容易くはないが、Serveの本質はファン作りなのかもしれない。
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