言葉の獲得は、人類が他の動物との違った発展を遂げた大きな要因だった。一方で、言葉が操れないことで、逆に真意を表現する能力を得るケースがあるのは不思議であり、時に言葉よりも雄弁である。言葉の操れないものは、表現方法が多彩である。言語以外のあらゆるものを総動員して、あるシンプルなメッセージを伝達する。そうか、そういう事だったのかを認識出来た時、その健気さに素直に感動することが出来る。可愛い愛犬と飼い主とのコミュニケーションの濃密さは目を見張るものがある。
この言葉を保有する、しない事に対する逆説的な現象は一体何なんだろう。思いついたら即座に発言するSNSの様な世界が現れ、言葉の重みが薄れて来ているからか?或いは、本質的な言葉を選ばずに発言することで、本質から遠ざかってしまうからか?「初めに言葉ありき」とは有名な故事の一節だが、意思在るものに形は宿るという意味である。言葉があるという事に慣れ過ぎ、その威力を自覚せずに、安易に使い過ぎているのかもしれない。
言葉は諸刃の剣であり、人はそれを背負わされている。喋り過ぎると敵対するし、喋り足りないと誤解が生ずる。時々、好みの作家の洗練されたエッセイを読んで、そう、それが言いたかった、という体験をする。過不足なく言葉を操るには修行が必要だ。思った事をそのまま発言して憚りがない烏合の集にはなりたくないものだ。それは、言葉を獲得し発展して来た先達に対する、ある意味の冒瀆ではないかと思う。
美しい国語が操れる方は、男女、年齢、国籍を問わず魅力的だ。これは賛同される方も多いだろう。最近の日本人は古典を読む機会が激減していると言う。大変残念な事だ。何故なら美しい日本語に接する機会が少なくなっているからだ。例えば、元全日本サッカー監督のオシム氏を見よ。彼はリーダーであり、言葉を巧みに操る事が出来る。海外でも、美しく含蓄のある外国語を操ることが出来る人は、皆から一目を置かれるのである。
また、言葉には頭の中を整理整頓する作用がある。これはブログを書き始めて気付いた事だが、自分でも頭の整理が出来ていない事を整理整頓する意味で、書くという事があり得る。迷っている事があれば、それを文に纏めると頭の中がクリアになり方向性が見えて来る、という作用である。
もう一歩突っ込んで考えると、ものを書くことが、本質的な課題を発見する一助になる。人はとかく目の前の問題に対処する事に懸命で、本質的な課題を問う、謂わゆる、「問いを立てる」事に疎いものだ。本質的な課題を発見すれば、後はそれを解いてゆけば、関連する問題が芋づる式に解けてゆく。時代の変わり目である現代は、複雑かつダイナミックに輻輳する問題が多く、問いを立てる能力が問われるのである。テストの点数が高い有名大学出身者が官僚になるケースが多いが、問いを出されてそれを解くのは得意だが、問いを立てる事に疎い官僚に国を任せる事が出来ない時代に入っている。
一方で、デザイン思考等でイノベーションを起こさねばならない、という様な強迫観念に囚われる企業経営者も多いが、手段の前に、自社或いは自分にとっての本質的な課題は何か?をまず問わねばならない。私見だが、今の日本人全般に横たわる大きな課題の一つは、「言葉の力を軽視している」事ではないか?と感じている。その国の文化水準や成長は、国語力によっているとは、ある教育機関の分析だが、現代の日本人は以前に比べて著しく国語力が低下している。理解力、想像力、洞察力、分析力、倫理観、全ては言葉によっている。「言霊」という言葉がある。発した言葉通りに実現する、という教えは、意を形にする言葉の威力に他ならない。
言葉を持たない動物が、人との豊かなコミュニケーションを育み、動物によっては社会を形成して立派にやっている。珠玉混合の情報が飛び交い、複雑な問題が累積する中で、言葉を持つ人類の叡智を発揮すべき時に来ているのではないか、と痛感する。
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