・不思議なこと
近年、人体の神秘が急速に解き明かされて来ている。DNAの分析が進んだことが大きいのだろう。個性や体力差はあるにせよ、基本的には同様の精密極まりない人体というVehicleをもつもの同士が、一体何故、中身いわゆる精神内容や人としての品質に大きな差が出来てしまうのだろう、という事だ。私はずっと不思議に思っていた。この様な差異は他の動物には見られない。これは「言葉を持つ」という事以外考えられないのではないだろうか。
・言葉の由来
そもそも、言葉の語源だが、「言」と「端」の複合語であり、「言」という文字は「事」と同じ意味を持ち、「事」は「真実を表す重大な意味」を持つものだった。我々の発する言葉はすべてが真実では無く、軽い意味を持たせる為に「端(は)」を加えて「言端(ことは)」と表現することになったという説。また、奈良時代の万葉集には「言葉」「言羽」「辞」という3種類の文字が使われており、その中で「言葉」が使われるようになった経緯は、「古今和歌集」の中で「ことの葉」という表現がされたことによって、「葉は沢山の意味で豊かさを表現している」と考えられ、それが「言葉」として定着していったのではないか、という説。この二つの見解には若干の相違が見られるのだが、私は後者を支持したい。
・何故、言葉が人類を発展させたか?
端的に言うと、言葉を使って、ものを「考える」能力を身につけたからである。そう、言葉と諸々の機能を持つが、伝達能力や感情表現などのコミュニケーション能力それ自体は、他の動植物も多彩な手段を持つ。伝達する同報通信機能などは、人間よりも優れている場合もある。しかし、ものを深く考え、新たな方向性を見出したり、世の中の法則性の見地から新しいものや文化を生み出したりする、「言葉を使って考え、新たなイノベーションを生み出す能力」が、他と比べて突出していたのである。言葉を使って書物を起こし、それを次の世代に引き継ぐという機能も偉大ではあるが、言葉を紡いである纏まった考えや思想を創造する、いわゆる、言葉を使ってものを考える機能こそ、人が獲得してきた財産であると言える。従って、人を人足らしめているのは、言葉でものを考える能力なのである。
ある調査で、理学系受験生の正解率と国語力の高さの相関関係が報告されていた。問題の読解力と状況に応じた適用力のことである。まず、問いの主旨が正確に把握出来ない為に解けない現象、また、受験勉強で公式なり、解き方のパターンなどを反復練習で頭に叩き込んだとしても、その問題のどこに適用したら良いかが分からない、という現象だ。これはどの分野にも言えることで、セオリーを覚えても、適宜に使える能力、この時にこそ使うのだ、という状況の読解力が無いと、セオリーは無用の長物となってしまう。当たり前のことなのだが、言葉を理解する能力、言葉で問いを立てる能力の有る無しで、世の中の大半の分野での結果の優劣が出てしまうとすると、捨て置けない問題だ。これはコロンブスの卵の様なものかも知れない。「分かっている様で、分かっちゃいない」重要なポイントである。経営改革の為の状況判断の様な場合がその最たるものだ。社内外の状況の読解力、我が社に取っての本質的な課題を問う力が無いと、経営改革は本質から離れ成功しない。これも言葉の力が問われる事柄の一つと考えれば、言葉の威力は偉大である。
・人としての価値
「言葉はその人そのものであり、人の価値は言葉によっている」、と言う哲学者の言葉は、現代の人には容易に理解されないだろう。初めてこの言葉に出会った時、私自身も戸惑ったものだ。価値ある言葉を話す人を価値ある人と判断し、くだらない言葉を話す人をくだらない人と判断する。人が人を、その「価値」を判断するのは、その話す言葉以外の何ものにもよってはいない。富めるもの貧しきもの、地位の有る無し、老若男女、国籍に拘わらず、美しく、巧みな言葉を操れる様に準備して置くことは、意味ある人生をおくる為の必要条件とも言える。これを持つのと持たないでは、人生のあらゆる局面に於いで、その行動にも味わい方にも大きな差異が出てしまうものなのである。
・言葉の力を高める
では言葉の力を高める方策は何か?これには昔からほぼ唯一の解が存在している。人類の遺産が集積している、古今東西の古典を読むことだ。単に読解力が高まるだけでなく、その時々にリーダーが先見性を持って、どの様な状況でどの様な判断を下し、結果としての栄枯盛衰を味わったか?や、大きな時代の流れの中で、何を大切なより処として何を失い、何を獲得したのか?などの人生の縮図を読み、味わい、考える事で、思考の幅と決断の要所を掴む事が出来る。
昨今は様々な端切れ情報がWeb場で暗躍しており、出自の分からぬWeb投稿に右往左往する世の中だ。本を読まずとも足りる、と考える諸兄も多いだろう。本を文字で読む、PCで流れる情報、画像を眺める、この二つの決定的な違いがある。声を大にして言わねばならないのは、美しい、良い文学の行間を行き来し、思わず本を閉じ、考え、沈思する、回想する、想像するという行為が大変重要で、それが言語力を高めると言われている。与えられる画像や動画を受け身で受信していると、人はものを考えなくなる。流れる映像間をサーフィンしているのみでは、人は馬鹿になるのである。
もう一つは、言葉を紡いである纏まった考えを創造すること、すなわち、ものを書く訓練をすることである。昨今、手紙を書く習慣が廃れつつあるので、短く簡潔な文章の中で、複雑な心情や事態の説明をするチャンスは激減している。これは訓練しないと醸成されない能力である。これがものを深く考える習慣を作るのである。本は読まない、ものをキチンと書けない、深く考えないでいたずらに情報発信する人々が多数を占めると、その国の文化は廃れてしまうのは道理である。
・大いなる矛盾
言葉の文化が暗黙の前提となっていた時代には、市井に様々な賢人がいたものである。それでもなお、残念ながら戦争があり、大災害があり、絶え間なく挫折を繰り返して来たのは事実であり、大衆のリーダーと賢者は往々に異なることが多い事を示している。それと同時に、ものの真理を考えることと、何かを実行することとの間には大きな乖離があり、賢者の考える方向性に逆行することが歴史上繰り返して来られた、という現実がある。
・幸せの基準
しかし良く考えてみると、言葉はその人そのものであり、端的にその人の価値を表す個人の財産の様なものだ。極めて個人的なものと言える。職業に貴賎は無いが、人には上品な人も下品な人も存在し、それらは別の価値観を持っている。良い個人の集積が良い社会になるとは限らないし、戦争の絶えない世にあっても。幸せな人々は確実に存在する。人生の価値の一つとされる「幸せの基準」も極めて個人的な出来事である。ある哲人は言う。
「人は、他人と比較して幸せを競い、不幸になる。」
端的で辛辣な言葉の威力である。
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