存在感のある人には歴然としてある。個性が発展したものと捉えることも出来る。老若男女を問わない。これは自然と身に纏ってしまうものらしく、ただ、黙ってそこに居るだけで良い。匂い立つのである。わざと気配を消している人もいる。ただ、気配を消していても、立ち居振舞い、しゃべり口、目力(めぢから)、生きる姿勢、考え方、リズムや勢い、そこかしこからはみ出てしまうのが、存在感である。
昔の俳優で例えると、若山富三郎という俳優の「事件」という刑事役には圧倒的な存在感があった。初老のポンコツ刑事風で、汗まみれで泥臭く犯人を追い詰め、人間性に対して優しい目を持っている。犯人からこの人に捕まるのなら仕方ない、むしろ本望だと思わせる人物だった。
存在感とリーダーシップ、双方を持つ恵まれた方々もいる。例えばかつての国連高等弁務官の緒方貞子氏などは、双方を持つ典型だろう。氏と米国BBCの人気キャスターとのインタビュー風景を見たことがある。堂々としたものだ。言葉少ないが言葉を選び、行間に独特の存在感を滲ませる。日本人として誇らしく思えたのものである。
昔、初老の森重久弥氏を見かけたことがある。その存在感に圧倒された。実力から来る自信、服装やセンスなども重要な要素だが、それにプラスして、人を喰っているというか、良い意味で太々しいのである。
繊細さと大胆さ、精神性や権力、美醜や善悪が一体となり、ある存在感が醸し出されるケースは多い。複雑な事情の中で揉まれていると、複雑な存在になるのである。どちらか一方では「静かな存在感」は生まれにくい。今の世相では存在感のあるタレントは生まれにくいのではないか?世間から細かく監視されていて、複雑な事情を許さない風潮にも思えるからだ。
この存在感は、本来グローバルにも通用する筈だが、そうとも言えない。世界で存在感が認められている数少ない日本人を数えてみると合点がゆく。スボーツ各競技で10人程度、芸能で数人、アカデミアではノーベル賞受賞者は増えたが、存在感のある方々は何人かは分からない。政治の分野では世界に存在感が認められるという意味では皆無だろう。ビジネス分野では、真にグローバルに認知された日本人経営者は残念ながらまだ存在しない。
故に日本のグローバルな存在感は薄い。
やはり少々問題である・・・。
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