私はエグゼクティブサーチという仕事柄多くの人に会う。かれこれ20年弱も続けている。よく飽きがこないものだなと言われるが、人に会うのを苦痛と思ったことはない。それがクライアントであれ、候補者であれ、ネットワーキングであれ、多くの人に会うのである。意図してお会いしている中でも、その相性というものはある様だ。緩やかに長くお付き合いさせて頂いている方々を思い浮かべると、ある共通点があることに気付く。そんな最中、最近とても衝撃的なエッセイに出会った。作家の宮本輝さんの「命の器」というエッセイだ。私自身、長年この道のプロとしてやっているその分野で、エッセイに書かれてている様な「人との出会い」に関する深い洞察に至らなかったばかりか、書かれてみて驚きを禁じ得なかった自分の浅学を恥じたのである。(以下、原文から抜粋)
「運の悪い人は、運の悪い人と出会ってつながりあって行く。やくざのもとにはやくざが集まり、偏屈な人は偏屈な人と親しんでゆく。心根の清らかな人は心根の清らかな人と、山師は山師と出会い、そして繋がってゆく。じつに不思議なことだと思う。「類は友を呼ぶ」という諺が含んでいるものより、もっと奥深い法則が、人と人との出会いをつくりだしてているとしか思えない。
それは事業家にも言える。伸びてゆく人は、たとえどんなに仲がよくとも、知らず知らずのうちに落ちてゆく人と疎遠になり、いつの間にか自分と同じ伸びてゆく人と交わってゆく。企んでそうなるのではなく、知らぬ間にそのようになってしまうのである。抗っても抗っても、自分という「人間の核を成すものを共有している」人間としか結びついてゆかない。その恐さ、その不思議さ、私は最近、やっとこの人間社会に存在する数ある法則の中の一つに気付いた。「出会い」とは、決して偶然ではないのだ。でなければどうして、「出会い」が、ひとりの人間の転機となり得よう。どんな人と出会うかは、その人の「命の器」次第なのだ。」
如何だろう?
周りの幾人かの人々に聞くと、それ「類友」って奴ですよねー。と軽く受け流されたり、「そんな事も分かっていなかったの?」というダメ出しを食らったりした。このエッセイには、一つには、出会いは様々な意味で必然であること、二つに、その出会いは、その人の形成されて来た精神的なコア部分(これを著者は「命の器」と呼んでいる)により決まってしまう事、の二つ重要な指摘がある。嘘だと思ったら、自分の有する人脈を辿ってみれば良い、と著者は言うのである。芥川龍之介が「運命とは性格である。」という言葉を残したが、それにも繋がる様に思う。
私共の場合、当初は出会いを仕掛ける要素がある分、純粋な出会いとは言えないが、時間を経ると人脈は絞られていき、この話に合点がゆく。何と無く感じていた事を、名のある作家にはっきり文章で指摘されるとびっくりしてしまう。と同時に、その「畏れ」を持って改めて人に会う事の大切さ想い、人脈を紡いでゆこうと思う。
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