人生の中で究められる専門分野は、残念ながら限られている。そして人は大きく2つのタイプに分かれる。その道の専門性を追求するタイプと、さまざまな分野の技術を浅く広く取り入れたいというタイプだ。
いろいろなことに興味が移ってゆくというのは器用な方々に多いが、多少飽きっぽい性格で、その道を究める面白さや深さや味わいよりは、新しいことへのチャレンジや専門家を使いこなすこと(マネジメント)に興味があるのだろう。
一方、不器用で少々粘着質な性格、また諦めが悪いタイプは職人かたぎに多く見られる。ただ、長年一つの道を究めると、皆独特の風格がでてくるのは不思議な現象である。
1 極めぬ者にパスとなるキャリアはない
それぞれトレードオフの関係にあり、どちらか一方が良いというわけではない。だが、私が何かの道を究めたわけではないのにおかしな話だが、「道を究める」というこのテーマは、自分にとってもしっくりくるし、共感を覚える。
これは生きる方向性の問題なのだ。ゼネラルマネージャーになる道とか、キャリアパスの議論とか、ひいてはビジネスの成功の秘訣とかいうテーマだと、私は少々違和感を感ずる。それは、ある専門性を磨かないと、何をやっても中途半端で終ってしまうと思うからだろう。つまり、目の前の仕事を究めず次のキャリアを追い求めるのに、違和感を感ずるのだ。
あらゆる仕事は、さまざまな専門性から成り立っている。これは考えてみると不思議なことで、「人が仕事を選ぶ前から、仕事そのものは存在している」ということを証明している。
その仕事が一人前にこなせるように、専門性を磨いて「仕事の本来求めるもの」に近づいてゆく、と考えるのが正しい。ゼネラリストと呼ばれる方も、自分達の顧客がどこにいるかを考える力、人を使う専門性、資金を回し顧客に価値を提供する専門性が必要となる。
2 「仕事が人を選ぶ」
少々きつい言い方だが、「道を究める」という覚悟のない者に、パスとなる次のキャリアが用意されるとは思えない。
最近、道を極めると言うと、何かの職人芸にのみ当てはまり、自分には関係ない、という兆候が現れ始めているような気がしてならない。
組織では、一般職、専門職、経営職全てに専門性が要求され、その個の鍛錬の集積が組織となり、他の競合相手との差別化を生む。「組織力」とよく言われるが、個人の力を束ね、1プラス1を2以上にするのが組織だ。個の力の総和が組織である以上、そもそも個々に力がなければ、組織としても差別化などできないのである。
優れた専門性を追求し、その道を究めている方は、その仕事が本来要求しているレベルに近づいてゆく。いわば「その仕事によって活かされている個人」「仕事そのものが人を選ぶ」という感覚の方が私にはしっくりとくる。
3 道を究める秘訣
「長く仕事を続ける能力」が存在することを最近、改めて認識した。長く続けることが一概に良いとは限らないが、ある仕事をひとかどのレベルに上げるための必要条件を1つ挙げるとすれば、「ある仕事を飽きずに長く続けることができる能力」となるのかも知れない。
努力を継続する中で、悲喜こもごもも、幸運と挫折も経験することになる。それを自分の内部でも往(い)なしながら、飽きずに継続していると、次のレベルへの階段の糸口が見つかることがある。
職人の場合多くは、最初は「強制」から始まる。丁稚である。かなり過酷な体験をされている方もいるようだが、その中でいやいやでも続けていると、段々仕事が面白くなって来るタイミングがある。
だが残念なことに、そのタイミングが来る前に飽きて辞めてしまう人もいる。それでは職人にはなれないのは当然のことだ。長く続ける能力は、言い換えれば、「自分なりの楽しみを仕事に見出す能力」と言えるのかもしれない。
4 一芸に秀でる~「戻り岩」の話
一芸に秀でると、全てに通ずる部分があると言われる。「一点突破、横展開」だ。逆に言えば、一芸に秀でることなくさまざまな仕事に手を出しても、所詮は素人芸を超えることはない。こう言ってしまうと身も蓋もないのだが、これが現実である。
1つの専門性を一流というレベルまで極める過程での、ある逸話を聞いたことがある。
散々労苦を重ねた上で、最大の試練を乗り越えようと、知力、技力、体力を尽くしたが、それでも試練を乗り越えられずに落胆していると、霧の向こうに大きな岩が現れた。近づいてみるとそこに「もうやめろ! お前には無理だ。さっさと引き返せ!」と書かれている。
それは天からの啓示のようで、ほとんどの人はそれを見て引き返してしまう。実は、この岩が現れることこそが、その人の覚悟を問う最後の関門で、「ゴールはすぐそこにある」という合図であった──。
この話は「戻り岩」と名付けられているそうだ。何か身につまされる話だ。
物事を続ける過程では困難な境遇に何度も遭遇する。仕事でも趣味でも皆同じである。その中で一流への試練を何度か越えながら、自分のものにするのである。
一芸に秀でた方々はそのプロセスに確信を持っている。だから、何か他のことを始めても、試練を「予見の試練」とみなし、乗り越えることができる。そこが凡人との上達度合いを分けるのである。
5 自分で問いを立てる
では、何が専門性を極める上での妨げになっているのか。これには昨今のIT技術をはじめとする技術やインフラの進歩が大いに関係しているのではないか、と危機感を抱いている。
世界中の出来事をニュースで見て、分からないことは「ググれば(Googleなどの検索エンジンで検索する)」大抵のことは分かったような錯覚に陥る。インターネットやソーシャルメディアの発達で、「何でもすぐ分かったつもり」になる勘違いが、専門性を深掘りするのを妨げている可能性がある。
すぐに「とりあえずの答え」が得られるため、自分の頭で深く考え抜くことを省略してしまう。その解答を得るために、何をどう調べたら満足する解答が得られるか? この「問いを立てる」作業、すなわち自力で答えにたどり着くプロセスをデザインすることが激減しているのではないか。
例えば、受験勉強で出された問題に解答するよりも、その問題の出題そのものを考える経験した方が、はるかに深い勉強ができる。「問いを立てる」という行為は、包括的に深く考察しないとできない作業なのだ。
利便性の裏には「それが当たり前となったユーザー側の人々を白痴化する」作用がある。便利にする仕組みを考えた人は、かなり頭も身体も気力も駆使して作り上げるが、その利用者側はその理屈を一向に知らずとも使えるのである。
6 衰えながら、道を究める
さて、道を究めるには時に長い時間を要する。その中でも「衰えながら道を究め続ける人」がいる。分かりやすい例として、テニスのフェデラーの例を挙げてみよう。
フェデラーは10年程前にピークを迎え、これまで数々の栄光を手にし、テニスの一時代を築いた人物だ。錦織圭も彼に憧れてプロのテニス選手になったという。世代交代で次に王者に君臨しているのがジョコビッチである。
フェデラーは一時ランキングをかなり下げていたが、年齢による衰えを意識して、自らの肉体改造に取り掛かるとともに、プレイの戦略も大きく変えてきた。そして近年ランキング2位に再浮上しているのだ。
「衰えながら道を極める」というのは凄いことだ。まだ若い人々には想像がつかないかもしれないが、「当たり前にできていたことが、できなくなる」という時期がやがて訪れるのである。この時に備えて、自分の技を極められればよいが、往々にしてその時期は突然訪れるので厄介なのだ。
自分の衰えを認めつつ、対策を打つと同時に、再び頂点に登るための戦略と戦術を練る。言葉にすると簡単に思えるかもしれない。だが、衰えを客観的に承認する事自体が難しい。
肉体改造をするにも辛いトレーニングに耐えなければならない。その上でフェデラーは肉体的に負担の少ない短期勝負に活路を見出すため、ある工夫をしたのである。サーブ&ボレー展開の徹底と、レシーブ&ボレーのための独特のレシーブ技術の開発である。
このレシーブ技術は通常よりも前に出てライジングで打ちネットに詰めるのだが、現在ではこのレシーブ方法の有効性が認められ、名前が付けられているそうだ。
こうしてフェデラーは他の若い一流選手がコーチを付けて凌ぎを削っている中で、また頂点に再浮上しているのである。道を究めるにも、その人生のステージによってアプローチの仕方が異なる。私は衰えつつも道を究めて止まない姿を美しいと思う。
7 手軽に手に入るものは身に付かない。
仕事も趣味も幸せも人徳も、皆、手軽に手に入るものは身に付かない。こんな当たり前のことは書くのも面映ゆいが、「それどういう意味?」と言う人が増えつつあるのは確かである。
利便性を開発する側は大変だが、誰でも使えるからこそ、それを使い続けていると、何を見てもその利便性が当たり前のように感じ始める。そして、「それがないとダメ」になる依存へと陥る。若い方々にとってのスマホもその1つだろう。そうやって、かつて賢い人も次第に馬鹿になってゆくのである。
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