朝の満員電車の中では、皆必死になってスマートフォンを眺めている。ニュースを見ている人、LINEやFacebookのやり取り、漫画やゲームなどさまざまだ。
満員電車の中でスマホを見るためのスペースを確保するのが困難なはずだが、いろいろな方角に身体を傾けながら、とにかくスマホを見ることが最優先らしく、最近乗客同士のトラブルも多いようである。
このようなことは30年前には想像ができなかった。私の場合、通勤時間はもっぱら「最近気付いたこと」などをスマホのメモ帳に記録する時間となっている。
最近気になるのは、スマホで画像や動画をみている人が圧倒的に多くなっているのではないか? ということだ。文字情報から頭の中で画像や映像情報へのイメージに転換してゆく過程が、「ものを考える」際に大変重要なプロセスであることが指摘されている。
ものを考える習慣がなくなると、人は直情的になりやすいとも言われる。余計なお世話かもしれないが、少し気になるのである。
1 人は言葉を求める
人は死期が迫ると、「言葉」を求めるという。名誉でも権力でも金銭でも食物でも、また愛情でもなく、「真実の言葉」を求めるらしい。真偽はまだ分からない。
人にある言葉を伝える時、直接会う、e-mailを出す、手紙を書く、葉書を書く、電話で話す、何らかの手段を取る。ただ、人生の大切なことを人に伝える時、e-mailは使わないだろう。
昔からどのような時に、どのような手段をとるのが最適か迷うことがあり、心得た方々はどう判断しているかに興味があった。「TPO」とコミュニケーションの手段は重要である。
2 言葉を伝える手段の多様化
最近、電話で話すということが激減している。逆に、その他の手段があるのに、電話をしてくるのは余程の緊急かと思って出てみると、瑣末なことだったりして、がっかりすることもある。
我々のビジネスでも昔はe-mailがなかったため、頻繁に電話をしたものだ。顔を見ないコミュニケーションは、目に惑わされない分、声色には相手の心の変化や現在の精神状況が分かるので、昨今再び注目されているようだ。百聞は一見にしかずとも言うが、目による情報は一瞬で取得できる情報が多い分、判断にバイヤスがかかりやすい。
あるクライアントのトップから私に直接クレームの電話をいただいたことがある。採用しようとする幹部候補者が転職するか否かで悩んでおり、彼との連絡が2週間ほど途絶えたのである。
クレームというのは、「その間に一本の電話もかけられなかったのか?」という内容だった。お互い忙しくe-mailでの連絡のみだったのである。
クライアントのトップの主張は、そういうデリケートな状況だからこそ、電話の向こうの相手の声色に耳を澄まし、どんな状況かを確認する必要がある、というものだった。最初はたじろいでしまったが、よく考えてみれば全うなご意見である。直接会うより電話口の行間に本音を垣間見ることもある。
3 「今起きている現実」のような錯覚
さて、「話し言葉」と「書き言葉」には差があり、前者はリアルタイムに相手の状況が把握できる分、受け手側も即時に反応せねばならず、思わず本音が出てしまうことがある。
後者は、双方に少し時間の余裕がある。それゆえに考え過ぎることもあるし、一旦置いて含蓄のあるやり取りができることもある。
重要な点は、話し言葉も書き言葉も、情報発信側も受信側も、言葉を通して「考える」という特徴があることである。
e-mailは世界中とのコミュニケーションを、一斉に、瞬時に、かつ安価で完遂できる、というイノベーションだが、この発展型のツールであるLINEやTwitterやFacebookはまるで「話し言葉」やチャットの感覚で、しかも画像や映像も添付し情報発信できる。
おかげで今や膨大な量の情報が世界中で交わされている。何かがあると皆一斉にスマホのカメラを向けるという習慣は、考えてみると恐ろしい文化だが、この膨大な情報がビックデータとして活用され、世界中の事件やハプニングの現場をリアルタイムに伝え、その結果、より正確な現状が分かったり、人命が救われたり、ときに政府が転覆したりする世の中になった。
これ自体は素晴らしいことなのだが、一方で、これらが言語の文化を乱し、人間の「ものを考える力」を著しく低下させているのではないか、と私は深く疑っている。
なぜなら、画像や映像は、言語を介さずとも受け手側は瞬時に理解できてしまう。考える余地を与えない。また、映像の突出した情報量は、真偽は別として目の前で「今起きている現実」のような錯覚を与えてしまう。その影響力は計り知れない。これは考えてみると大変恐ろしいことだ。
4 物言わぬ映像の威力
「話し言葉」「書き言葉」で話を始めたが、「物言わぬ映像」がその信憑性は別にして、瞬時に世界を駆け巡る。
ムービーカメラの発明からおよそ100年経つ今、情報発信の新たな道具を手に入れた人間はどのように変わったのか。「映像は人間の罪と勇気を照らし出す」として最近NHKで放送されたのが「新・映像の世紀」という番組だった。
歴史上の重要な人物が生で動いている映像は、何とも言えぬ迫力があった。これは有無を言わせないものであり、人から言葉を失わせるものである。ぽかーんと、ただ眺めてしまうのだ。
実はこれこそが我々が「考える生き物である事」を放棄する瞬間である。「考える」という行為は、本を読んだり、ある刺激から連想されるものを頭の中で繋ぎ合わせたり、図に展開したりする過程で育まれるもので、テレビや映画を見ると、映像と言う答えが最初から出てしまっているので、ものを考えなくなるのだ、と言われる。
映像は人を強制的にある方向へ導いてしまう威力を持つ。くれぐれも気をつけて付き合ってゆく必要がある。
5 それは言葉文化の衰退を意味する
デジタル世代と呼ばれる若者たちは、きちんとした日本語で、物事を過不足なく話すことができない者が多い、と言われる。人は考える時にはペンを持つが、お互いに理解し合うためには話し合いが必要である。
当たり前のことだが、「きちんと書く、話す」能力の減退は文化の衰退を意味している。少し飛躍しているようだが、深く考えてゆくと、やはりそこに帰着すると思う。言葉は文化そのものである。
欧米人の英語にはクラスがあり、タメ口のような英語しか喋ることのできない人々は正当な英語に矯正するために時間と金を自分に投資する。
一方では、最近ある日本のスポーツ選手がインタビューに答え、大変綺麗な日本語を操っているのに驚いた。それほど現代の日本語は乱れてしまっている。
手紙を書く習慣はさらに薄れている。男性の密かなオシャレの1つが「贅沢な万年筆を持つ」だったはずだが、私自身も最近なかなか万年筆は使わなくなってきた。
自筆の手紙を書くのもたまには良いものだ。ビジネスレター、プライベートなレターいずれも思いつくまま書いてしまっては冗長に過ぎる。簡潔にポイントを絞る必要があるが、行間の気働きやニュアンスの表現が難しい。
そういう意味で、葉書の達人という方々がいる。短い文面に凝縮された想いを綴って、しかも淡いニュアンスを残す。見事である。
また、昔の人の手紙などを書籍で見返すと、市井の日本人の日本語のレベルの高さに感心する。昔の彼らが現代のような情報発信の手段を持っていたら、どんなコミュニケーションを図るだろうと考えると楽しい。多分、そう簡単に自己の主張を公開することはしていないだろう、と想像する。
6 真実はどこにあるのか
インターネット上でも、記名して自分の考えを公表するのは、Fairである。無記名で雑多な意見を述べて相手を糾弾したり、不確かな情報を無断で公表したりして、相手を貶めるのはUnfairである。なぜなら大人として責任の取れない発言と方法だからだ。
このような当たり前のことが通用しない世の中になりつつある。無記名な無数の動画の投稿から、世界を揺るがすような事が現実化しているのも無視できない。良い悪い、Fair、Unfairの問題を越えて大きく「映像スタンプ」という怪物が動き始めている。
一方で、それでも人は死期が迫ると「真実の言葉」を求めるのだとすると、人もなかなか捨てたものではないな、とも思っている。
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