1 人の顔はなぜこんなにも多様なのか
最近、あることがきっかけで、事物をありのままに丁寧に観察することの大切さを思い、デッサンの真似事を始めた。人の顔を描いてみて痛切に感じるのは、外見的には「顔」にその人の特徴が凝縮されているにもかかわらず、その差はちょっとした違いでしかない、ということである。その人の顔に似せることは殊のほか難しいのだ。
何回も修正して描いていると、ある瞬間から急にその人に似てくる瞬間がある。各部位の特徴を掴んで少々誇張するのも大切だが、それよりも全体のバランスが出来・不出来を左右するのだ。
もう一つ不思議に思うのは、同種の他の動物は我々には同じに見えるのだが、なぜ人間の顔はこうも異なって見えるのか? という疑問である。ペット化された犬猫ならば、個々の判別もつくが、昆虫や植物に至っては全く見分けがつかない。
大自然の造作物である限り、これは意味ある“作為的”である可能性が高い。ただ、動物からしてみれば、顔以外にも異なるところは幾らでもあるではないか、と言われてしまうだろう。
におい、声色や仕草、大きさ、性格などである。視覚情報に多くを頼る人間は、顔以外の違いを認識する能力が他の動物たちと比べ、はるかに劣っている。だから目で認識できるパートを増やしておいたのかもしれない。
2 個性は「出てしまう」もの
個性は「Character」と訳されるが、「He is a character.」と言うと、「彼はひとかどの人間である」という意味や、少し変わった人という意味になる。
個性的に生きなければならないとか、彼女は個性的で魅力がある、などと言われ、個性的になろうと努力する人もいる。
だが、これはよく考えると少しおかしなことで、個性とはいくら隠しても出てきてしまうものなのだ。良い個性もあるし、中には困った個性も当然あるだろう。“クセ”と言い換えることもできるかもしれない。
ある厳しい環境で、自分の個性やエゴを押し殺して1年間働き続けたとしよう。過酷な環境で押し殺しても押し殺しても、自然とふっと出て来てしまうもの、それが個性だとも言える。
個性とは、その人がその人である「証」だ。それを識別するシステムが我々の体内にもある。「免疫」だ。
免疫学の権威である故・多田富雄氏は『免疫の意味論』(青土社、1993)や『生命の意味論』(新潮社、2007)といった著書の中で、免疫系における「自己」と「非自己」から「超(スーパー)システム」という概念を示している。
そして、この概念は人間という生命体の社会システムに対する考察にも及んでいる。私はどうして「私」という形をしているのか――つまり、独自の外形や内面、すなわち個性はどのように形作られるのか。それは「自分らしくあろうとする力」が、その人独自の特徴を持つ臓器や体型、さらには性格といったものに強みや弱みを与えるという。
また、この独自の資質は人生の成功や挫折をどう乗り越えて行くか、「生きる」という活動全般に関わってゆく。つまり、免疫の司令塔としての役割は、我々の社会的・文化的な意味も含めた「存在」に及ぶということらしい。免疫はまさに「生命の源泉」なのかもしれない。
考えてみれば、人は人生の時々でさまざまな決断をして生きている。その意思決定そのものが、すでに個性的である。
あらゆる文学、芸術、芸能、学問、仕事、娯楽を含め、その目的は「人生とは何か」を問うものだとすると、それは「個性とは何か」を問うているのど同義なのかもしれない。「個性的になってしまう活動そのもの」が「生きる」ということ、と改めて言われると驚きがある。
つまり個性とは本来、偉大なる自然が作り出した唯一無二なもので、これは人が賢(さか)しらに操作できるものではない。だからこそ、できればその「個性を活かす」ような方向性に人生を振っていった方が良いわけである。
3 「個性を活かす」とはどういうことか?
では個性を活かすためには、どうすればよいのか? まず自分の個性とはどの様なものなのかを知る必要がある。等身大の自分を客観的に見つめ、できれば良い所だけを抜き出して使いたい訳だが、これが意外に難しい。これには二重の難しさがある。
1つは、自分の個性を客観視することの難しさ。そしてもう1つは、良い所だけを抜き出すことの難しさだ。
エクゼクティブサーチという職業柄、ファイナリスト(転職の最終候補者)のリファレンスチェックを依頼される。ファイナリストと過去お付き合いのあった方々に、仕事振りや性格などを電話インタビューするのである。
この時のフィードバックをファイナリストご本人に返すと、8割方の人が驚かれる。自分のイメージと他人が見たイメージにギャップがあるからだ。
また、個性の良い所だけを抜して使えるほど、人の知恵は熟していない。大自然が作り出した個性は、時に善良で時に悪魔的である。コントロールしようとする発想自体に無理がある。
良い面と悪い面は表裏になって個性を形成している。あんな善良な人がどうして・・・と言われる犯罪は残念ながら後を絶たない。
4 欠点の無い人間は魅力が無い
では個性を活かして世の中の役に立つ事はできないのか? と言うと、そんなことはないはずだ。個性は魅力の源泉であり、疎ましい源泉でもある。だからこそ、欠点の無い人は何か温かみに欠け魅力が無い。
少し訛りがある美女、きちんとしているが少し抜けた部分がある人、格好は良いが泥臭いアプローチをする人、美男でも美女でもないがセンスの良い人、強面だが弱者に対して優しい眼差しを持っている人、それぞれ魅力的である。逆に、頭が良く美形で人柄も良くセンスも良いとなると、何か嘘っぽい感じがするのは私だけだろうか?
例えば、私が感ずる個性的で魅力が在る人を挙げてみよう。緒形拳、佐藤浩市、高岡早紀、越路吹雪、カトリーヌ・ドヌーヴ、シャーリー・マクレーン、ミック・ジャガー、アンソニー・クイン・・・。
個人的な趣味の範囲でしかないが、何か私の好みにはある特徴がある。ある専門性に通じ美男美女だけでは括ることができない、人生の酸いも甘いも噛み分けられるような人物で、独特のセンスを持っている人たちなのだ。
5 「個性」と「使命」との出会い
強烈な個性も、美しい個性も、邪悪な個性も、困った個性も存在するが、その長所や短所をどう上手くいなして付き合ってゆくか? これが人生とも言える。
私は、その「個性」が、ある「使命」との出会いによって一段と昇華されてゆくような気がしてならない。晩年のオードリーヘプパーンがアフリカの孤児と出会い、残りの人生をアフリカの地に捧げたように、人はあるタイミングで自分の役割や使命を認識するものらしい。
私にそのことを気付かせてくれたのは、ある作家の言葉である(以前の記事でも紹介したが、再度掲載させていただく)。個性はこのように活かしたいものだ。
<人はその数だけ特殊な使命を持っている。誰ひとりとして要らない人はいない。そのことをはっきりと時間し、自分に与えられた使命の範囲を受託し、そのために働き、決して他の人を羨まない暮らしをすれば、誰でも今いる場所で輝くようになる>
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