私は良い道具が好きだ。例えはカメラ、ゴルフクラブ、機械式時計、万年筆、ロードバイクなどなど枚挙にいとまがない。だいたい硬くて黒光りする美しいものに惹かれる。良い道具に出会うと、早速その仕組みや構造に宿る非凡さを紐解いたり、生まれて来た歴史を辿ったりして、その道具を磨くのである。こういう性癖は男子独得のものなのかも知れない。良い職人やスポーツ選手、燻し銀の俳優達や芸人にも、ある仕事の中で、失礼ながら「良い道具」を思わせる方々が確かに存在する。最近自分も良い道具として、出来れば世の中に役に立つものでありたい、と考えるようになった。そのきっかけは、ある作家の「自分を軽くみる習慣」というエッセイである。
自分を軽くみる?この言葉に出会ったとき、ピンと来なかった。要は、自分のことを重大に考え過ぎる。自分が不幸だ、不幸だとなげく多くの日本人が存在する。その背後には、こんなに大切で価値のある自分が、何故こんな目に合わないとならないのか、という一種の奢りがある、というのである。厳しい言葉だ。軽くみるとは、もっと自分を道具と見做し鍛錬せよということである。
人は誰でもある役割や使命を持って生まれて来ている、という。それに気付くのは、かなり人生の経験を積んだ後である事が多く、自分の意志で生きている部分と、何かに生かされている部分がある事を実感する年代がある。生かされているということを発展させると、自分が天からある使命を持って遣わされた「ある道具」であり、どんな些細なことであっても「役に立つ道具」として貢献が果たせていればそれで良い、という発想に行き着く。そういう考え方が出来れば、何よりも不幸だと嘆くその本人が救われると言うことがある。何故なら、自分が何かに役立っているという実感は人を変える力を持っており、本来、道具は人の役に立つからである。私は宗教を持たないが、そのニュアンスは理解出来るような気がする。
使命感を持たないととてもやれない仕事というものがある。人の嫌がる仕事である場合も多く、精神的にも肉体的にも厳しく見返りも少ない。それなのに連綿として世代から世代へ受け継がれる一貫した仕事である。この場合、人が仕事を選択するのではなく、仕事が人を選んでいることが多い。言わば、そういう仕事を司っている神々が、人を道具として使い切るのだ。
「良い道具」になるためには、道具ならではの用途(専門性)と鍛練による性能の追及が必要である。我々の仕事の場合、良い人を見抜く力、人をモチベートする力、顧客と候補者のフィット感を判断したり、活躍を想像する力、条件交渉力、顧客と候補者に自分のファンを作る力、などの専門性である。それらの技術を、必要な時にタイムリーに繰り出す判断力も必要だ。これにはたゆまぬ訓練が欠かせない。もう一つ忘れてはならないことがある。それは主人に絶えず使ってもらわないと道具は錆びてしまうということだ。我々の場合、主人とは顧客であり候補者である。
「人はその数だけ特殊な使命を持っている。誰ひとりとして要らない人はいない。そのことをはっきりと自覚し、自分に与えられた運命の範囲を受託し、そのために働き、決して他人を羨まない暮らしをすれば、誰でも今いる場所で輝くようにる・・・」とは、昨年出会った著名な作家の言葉であるが、読むたびに深く腑に落ちる。強く美しい言葉だなと思う。
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