オリンピックイヤーである。金メダルを「取らねばならない」と、自分にプレッシャーをかけ、本番で力を十分に発揮できなかった日本人も少なくないだろう。
人は生まれてから死ぬまで、「でなければならない」という義務感のようなものと付き合っていく。
男らしくあらねばならない。上司らしくあらねばならない。日本人らしくあらねばならない。母親らしくあらねばならない。若者らしくあらねばならない・・・。まだ視野が狭く思い込みが強くなりがちな若い頃はなおさらだ。特に真面目な人ほどこの脅迫観念があるらしい。
「よし、こうやろう!」と「こうでなければならない」とは似て非なるものである。「I will」と「I have to」の違いだが、ここにはポジティブとネガティヴというニュアンス以外にも、「自分自身へのプレッシャーのかけ方」に違いがある。
自分で自分にプレッシャーをかけると、必要以上に他人に対しても好戦的になると同時に、自分自身の精神的な自由度を奪い、委縮してしまう。結果的に、思い切ったパフォーマンスが出せなくなるのである。
しかし60歳を越えた今、立ち止まってよく考えてみると、「こうでなければならない」ことのほとんどは、“自分の勝手な思い込み”であることに気付く。時にこの思い込みで、傍らの人びとに多大な迷惑をかけていることさえあり得る。
このテーマは古くて新しい話題だ。昨今メンタルケアの必要性が叫ばれる時代である。デリケートな話題であることは承知の上で、この「でなければならない」という思い込みとストレスとの関連性はかなり深いと考えている。
1 なぜ“思い込み”は強まるのか
誰しも人には相談できない事があるものだ。家族にも友人にも会社の人にも相談できない。プライベートな事はもちろんであるが、経営者など大変孤独な立場にある方々にも「人には言えないこと」は多い。転職などもそのジャンルに入る。
誰にも打ち明けられない事が積もり積もると、人はかなりのストレスを抱え込む。私をサポートしてくれる人が「いなければならないのに」いない、誰かに相談したいのだが、そんなプライベートな事は「みだりに他人に相談すべきではない」、と思い込んでしまう。
欧米には「懺悔(ざんげ)」する慣習がある。キリスト教で神の代理とされる司祭に罪を告白し、赦しと償いの指定を求める。「懺悔室」は誰にも聞かれずに秘密を打ち明けられる場所であり、小さな罪も大きな罪も懺悔し、神の赦しを請う。これが多くの人にとって「ガス抜き」として機能し、ストレス解消の大きな一助になっている、と想像する。
懺悔室に入って行くことは日常の風景であり、誰も奇異の目で見ることはない。ここが肝心なところで、この環境がたやすく得られる、実によくできた仕組みである。ちょっとした事も、重大な事も気軽に告白し、相談することができる。
エグゼクティブリサーチという私の仕事もある意味、この「懺悔室」と似た役割がある。もちろん、何回か会い、互いの信頼関係が醸成された後のことではあるが。
依頼者のお話を伺っていると、真面目で勤勉な方ほど、「こうでなければならない」という考えに支配されていることが多く、それが実現できていないことが重大なストレスになっている。
自分はこういう立場なので、周囲からもっと大切にされなければならない。自分はこれだけの仕事をしているのだから、もっと認められて良い立場を得なければならない。金を払っているのだから、もっと良いサービスがあってしかるべきである。あれだけ周囲に迷惑をかけているのだから、あの人は裁かれなければならない。やられたのだから、やり返さなければならない・・・。「でなければならない」のオンパレードだ。
2 「べき論」の押し付け
これらの「べき論」は最近のネット社会の到来により、ますます加速されつつある。あたかも不特定多数の人びとが目を光らせ、個人の行動を監視する社会である。中には思い付きを無記名で垂れ流しする誠に卑劣な輩まで現れる始末。そんなネット社会からは距離を置きたくもなるだろう。
個人の価値判断を醸成するには、常にその価値判断の「逆も真なり」という要素があることを認めることが大切だ。それが大人の判断というものだろう。当たり前の事だが、それが通らなくなれば、いよいよ全体主義に傾いた社会か、幼稚な社会に陥ってしまう。
「でなければならない」というのは、何か言葉が省略されている。「人に見られてみっともないから」とか「他人と比べて自分は正当に認められていない」とか「今まで自分はこうしてきたから」といったニュアンスが省略されているのである。それは自分の弱さ裏返しとも言える。
本来「でなければならない」、つまり「have to」とは、社会的に承認されている事に対して使う。従って、まだ皆から承認されていないことに「You have to」という表現を使うと英米人は奇妙な顔をする。なぜ、あなたに“have to”と言われなければならないのか? と。
自分だけが思い込んでいるものに、他人に対して「でなければならない」という強制の表現を使うのは本来おかしい。まだ世間でも一般的に認知されていないことを自分の意思でやる時には、「I will do it」すなわち「よしやろう!」なのである。
したがって、連戦連勝のワールドランキング1位のスボーツ選手でさえ、次の世界大会に勝とうとする際は、勝たねばならないという「I have to」ではなく、「I will do it」であるはずだ。なぜなら勝負は時の運、というのが世間の一般的な認知があるからだ。
それなのに、個人の思い込みでさまざまな事に「have to」を自分に課すことが多い我々個人は、ある意味、不遜であり、また滑稽な存在とも言える。
3 「will」と「have to」が逆転している?
ただし、例外もある。それは「教育」の現場である。最初は強制から始まり、反復訓練の中から「型」が確立し、その「型」を越えて、新しい「創造」に発展する。これはどのような教育にも共通するセオリーであり、「型」を身につけるまでは「have to」なのである。人に迷惑をかけない、弱い立場の人を助ける、などは理屈ではなく強制である
多くの専門職はこのジャンルに入る。昨今、これを勘違いしてしまう傾向があり、「型」を身につけることを怠った自称「専門職」が多い。
また、社会人としての教育も同様である。そのベースはもちろん家庭などで社会に出る以前に行なわれなければならない。それまで培ってきたものを基礎として、具体的な「社会人としての型」を入社から約3年間、新人教育として行われるのが理想だ。
最近は入社3年未満で転職してしまう若者が多いと聞く。新人教育にお金と時間を掛けられなくなりつつある時代的な背景もあるようだが、少し強制されると我慢が利かない若者側も、毅然とした強制ができない会社側のどちらも問題である。
これは日本全体の教育問題にも発展するテーマである。本来「I have to」であるところを自分勝手な「I will」にしてしまい、本来「I will」で対処すべきを「I have to」と思い込んでしまう。
これらはちょっとした事なのだが、なかなか厄介な問題である。少し心の角度を変えることで、全く違った人生を歩める可能性を秘めている、という意味で「ちょっとした大事(おおごと)」なのである。
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