追い詰められた環境の中で、己れの能力を最大限に発揮して、あるパフォーマンスを挙げなければならない、または守るべきものを守らなければならない、という様な事態に遭遇することがある。007の危機一髪ではないが、そういう時、どの様に対処してきたかは、人それぞれのストーリーや歴史があるのだろう。信仰を持っていなくとも、兆時の際「神頼み」することがある。今までもささやかな挫折や成功、思わぬ運不運に出会ったりした。この事は誰にでもあることなのだが、その中で度々感ずることがある。大袈裟な表現になるが、「運命に身を委ねる」と言う感覚である。投げやりではなく、こうあらねばならないと、心も体も萎縮してしまうのを上手く解き放つ、という感覚だ。または自分の力以上の困難に遭遇した時に、直近の障害に対し抗うのではなく、まず受け入れてみるのである。
これが自然に出来る時は、不思議と結果が伴っていた様な気がする。これが出来ない時がある。意気消沈していたり自信過剰だったり、それまの努力を怠っていたり、潔く運を天に任せるという姿勢になれない時だ。ただ、絶体絶命な環境に追い込まれたとき、有無を言わせず運命に委ねるしかないという経験は誰もしているのではないかと思う。
平常時からこの様な感覚を持っている方々がいる。仕事柄、人の命を預かったり、自分の判断次第で多くの人々の生活に影響がある立場の人々である。しかしながら、人間が人知を尽くしても限界はある事も知悉している人々である。それはある意味「聖職」と言える領域だが、その言葉とは裏腹に現実の日々の活動は泥臭く過酷な事が多い。また、多くの場合、一見自分にとって損になる役回りを、自分から進んで担っているという特徴がある。一方で、自分の損な役回りは決してしない、という極端な方々も最近の日本人に目に付くのは面白い対比である。
運命を委ねるに相応しい局面が、最近の日本にはめっきり減ってきてしまっているとすれば、それも問題である。人間のぎりぎりの能力を出さずとも間に合う社会である。若い時に修羅場をくぐった経験の有無はその後の人生に大きな影響を与えるものだ。最近不思議なのは、大会社に勤めていても、55歳前後からは皆自分の裁量によって経済的にも精神的にも自立して生きねばならない、という事実に気付いていない大人が多い事である。誤差はあれ70歳ぐらいまで元気で働く時代に入って来ている。いい歳をして今まで以上の待遇を求めたり、中には有名大企業にいたから、無条件にリスペクトされるべきだ、と本気で考えている猛者もいる。幼稚と言って済まされるのかどうか分からない。
私見だが、55歳になってあたふたしない為に、45歳からの10年間をじっくり考え、自分の強みを活かす方向性をよく見定める必要がある。ある年齢に達すると、弱みを矯正するよりも、強みを活かした方が利に適っているのは、精神的、健康的にも楽だし、楽しいことからも理解できる。「楽」という漢字がこの2つの意味を持つことは、考えてみれば示唆に富んでいる。
運命を委ねるという本題に戻るが、私の場合「大きな自然の流れに身を任せる」ことに近い感覚である。非常時に、体も心もリラックスしている状態を作り出したい。往々にして体も心も萎縮してしまいがちだ。「こうでなければならない」という強迫観念に囚われてしまい、思った事の半分も出来ないことも多い。
二年ほど前に、八ヶ岳で開催されたあるのロードバイクの大会で、心臓破りの10km程続く登り坂に遭遇し、途中でもう駄目だ、と思い諦めかけた。その時「この海岸寺坂という由緒ある大きな坂に敬意を表し、身を任せてみようと思ったのである。抵抗しようとすると苦しさばかりで、その大自然の中の一員であるというか、同調しようとすると不思議な事に、心理的、身体的な変化が生まれた。その坂のきつさに順応しようとして、体の全てがぎりぎり坂が登れる範囲のエネルギーの使い方をするのである。いわゆる省エネモードだ。この状態が私にとって「身を委ねる」感覚に最も近い。こうなると身体は嘘のように楽になるのである。
人生には様々な逆境がある。その都度抗ったり、その不幸を嘆いていてもはじまらない。こういうこともあると、その環境に順応しようと「流れに身を任せる」のは、決して消極的な姿勢ではなく、むしろかなり上等な人の知恵である様な気がする。
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