このビジネスを続けていて、認識を改めさせられることが多い。その中でも筆頭に挙がってくるのは、必ずしも世間的に優秀とされている方々が、企業を成長させたり、危機から救ったり、長年企業を継続し価値を提供し続けたりする訳ではないという点だ。むしろ「元気ある鈍才」が事を成す。いつも不思議に思うのである。それは「分からないでやる」という事が作用しているのではないだろうか?
何か物事を始める時や、何か新しいことを開発したりする際、初めは答えがない。人は皆、分からないでやる訳だ。また、何かクリエイティブな仕事についている人々も、世に無いものを出すとき、分からないでやっている要素が強い。経営という仕事も、常に新しい環境に晒され、限られた情報の中から分からないで判断せねばならない事が多い。考えてみれば「分かってやる」ものは限られていて、ほとんどの仕事は「分からないでやっている」とも言える。これはとても興味深い。
分からないで実行するのは、嫌な人に取ってはこの上なく嫌なものだ。分かってから実行したいのである。しかし、環境変化の激しい現代では、じっくり考えているうちに、嗜好や生活パターン、価値観など、いわゆる時代が複雑にスピーディに変化してしまうので、良いプランを練りに練ってもWorkしにくい。
秀才は完璧なプランを作る事に、自分の価値があると思い込んでいる。また、秀才は頭が良いので、ある程度周到に準備して先が見えないと行動に移さない。その結果として、企画に時間をかけ過ぎマーケットウィンドウを逃してしまうのが一つ。戦略が複雑になってしまい、実行性に難があるのが一つ。計画はそこそこでも、あらあらの道筋か見えたならば、シンプルに実行に移し、半歩進んだその時点の情報でオリジナルな計画を修正して、粘り強く実行してゆく方に軍配はあがってしまうのである。鈍才は先が見えないから、そこに留まってやり続けるしかない。秀才は早見えしてしまうので、もう少し頑張ってそこに留まれば解決の糸口が見つかるのに、諦めてしまう。その言い訳を考えるのは得意だが・・・
「分からないでも実行してみる」という要素が、事を成す際かなり重要な位置を占めていると得心したのは、ちょっとしたきっかけだった。最近Eテレの「サイエンスZero」という番組で、脳の働きと「ぼんやり」している事の関係性に注目した番組があった。脳は1日200kclのエネルギーを消費していて、そのうち合目的な事柄で費やされる脳(顕在意識脳)は、全体の脳の働きの中の一割に満たず、その他は別の活動(潜在意識活動)にせっせとエネルギーを使っている。これは我々がぼんやりしているうちに、脳はネットワークを張ってかなり重要な働きをおり(これをDefault Mode Networkと呼ぶ)、この分野は現在世界中の科学者がしのぎを削って研究しているそうだ。例えはアルツハイマー、鬱病などの治療、記憶や忘却を通して情報の整理統合、その他創造性、やる気や好き嫌いなど前頭葉が関連する潜在意識の活動に関連する分野など、かなり広範に亘る。やはりそうだったか。人間の浅知恵で「分かってやる」分野などは、ごく限られたものに過ぎないという証拠である。
成したいことがあり、有る程度練り込んだあとは、ぼんやりとしていることが必要なのである。答えは向こうからやって来る。(笑)これは冗談では無く、ある作品の完成過程で「寝かせる」というプロセスを踏むものは意外に多い。一旦、風を入れる訳だ。そうすることで、内部発酵が始まる。新たに何かを創造する仕事には、分からないでやってみるという認識と、やるだけやったら、ぼんやりして「ほかっておく」ことが重要で、企画段階であまりピリピリしないことである。しかるに、我々が受けた教育は、世の中の事象を如何に合理的に説明出来るかに、焦点が当たったものだった様な気がする。それはそれで必要だが、万能では無いという事だ。
秀才は出来ない言い訳をするのは得意だが、凡人は分からないでけれどやって見るしか無い状況に追い込まれる。結果、上手く説明出来ないが、出来てしまったという事例が多くなるという訳である。実は、「分かる」という言葉も分かった様で分からない。(笑)原義としては、混沌とした物事がきちんと分け離されると明確になる・・・というところから来ている。物事の本質が見え隠れしていて、これか・・・と分かってしまうタイミングは確かにあるし、ただの思い込みであるケースも多い。ソクラテスの「無知の知」も「分かったふりをするな。」という警鐘であり、分からないでやる事の重要性を既に見抜いていたのかも知れない。
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