私は筆記用具が好きだ。都心の大きな文具店に寄ると、半日潰してしまう事がある。昭和の万年筆世代?なので、ウォーターマン、モンブラン、パーカー、デュポン、ペリカン、パイロットなどを集めていたが、10年ほど前メキシコの空港で盗難に遭い愛用の2本を失い、万年筆の収集意欲が萎えてしまった。最近はビジネス用の万年筆もボールペンも、もっぱらパイロットを愛用している。また、罫線の無いクロッキーノートにステッドラーの4Bの鉛筆であれこれアイデアを書き留めたり、コンセプトの様なものを図にしたりする。何かを創造したりする時だ。罫線があると思考の自由が制約される感じがする。私は白紙・鉛筆派である。
私にとって「考えること」と「書くこと」がほぼ同義であり、ペンを持って考えることは極く自然な行為で、皆そうしているものと思い込んでいた。ところがそうでも無い事が最近分かってきた。
何かを創造する要素が入ってくれば来るほど、また思考を凝縮させたり、飛躍させたりする必要が有ればある程、その傾向が強くなる気がする。図を描いていて、創造的要素はゼロから生ずるのでは無く、「意外な組合せ」から来る事が多いと言うことが分かる。また、書くことと発表する機会を持つことを併せて行うと尚良い。整理され煮詰められた考えは読んでも分かり易い筈である。ある作家のエッセイで、書くことで責任が生ずると言う指摘があった。これは無責任に匿名で投稿する傾向に対するものかどうか分からないが、記名で書くものには責任が生ずるのは確かである。
散策という言葉がある。ゆっくり歩くことと考えることも密接に関連している。要は、手足を動かす事、外部から現場に即した適切な刺激を受ける事(これを第一次情報と言う。また、その考えを誰かに喋りフィードバックを得る事(これを「壁打ち」と呼ぶ)も大切である。それらと、考えること、新たなものを生み出す事とは切っても切れない関係性にある。リモートワークをせざるを得ない環境下でも、独りで机にむかっているだけでは生産性が上がらない。身体を動かすことが必要だ。
作家村上龍さんの長寿番組、「カンブリア宮殿」の編集後記は味があり、毎回楽しみにしている。氏がワイシャツをまくり、書き味の良さそうな万年筆を持って原稿用紙と向き合っている。あの万年筆はどこのものだろう?最後にその回のエッセンスを一言で綴る場面があり、いつも極く短い、的を得た表現に感心する。自筆の筆跡も長年書き込まれた独特の書体である。文章を練って練ってシンプルな形に凝縮させること、考え抜くことを、あの万年筆で紡いでこられ、あの書体を獲得されたのだろう。
ペンは考える為の道具であり、書体はその人そのものを現している。
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