成人した大人に、希望を持て、自信を持てとけしかけるのも単純でどうかと思う。一方で、希望がない、自信がないと真剣に悩んでいる人々がいて、中には精神的に参ってしまう方もいるようだ。
そういう方々は、何でも自分独りでやらなければならない、他人様にご迷惑を掛けてはお天道様に申し訳ない、という一種の強迫観念に囚われているようにみえる。考えてみれば、自分独りの力だけでやれる事は、本当に限られている。絶海の孤島に独りでサバイバルするなどの場合などを除けば、我々は様々なインフラに支えられ、家族や会社の同僚や上司、友人また顧客にも支えられかろうじて面目を保っている。自信過剰も自信喪失も、独りの力を頼んでいるという点で共通点があり、度を越すと少々滑稽に見えるのである。
独り志向に関しては、私にも同じような経験がある。若い頃の自分は、思い込みが激しく柔軟性に欠けた熱血漢で、周囲によく迷惑をかけた。上司から「孤独のセールスマン」とか「Mr. D」とかというあだ名もつけられた。何でも自分独りでやり切ろうとするが、結果やりきれず皆に迷惑をかける。「Mr. D」とはABCDのDである、独りでやろうとして失敗し皆に迷惑をかけるのがランクD、独りで何とか上手くやれるのがランクC、皆の助けを借り工夫するが失敗するのがランクB、皆の助けを借り工夫して成功に導けるのがランクAという訳である。
当時自分としては、個の力を磨く方に優先度があり、よく意味が分からなかった。しかし今はその趣旨はよく理解出来る。皆を巻き込んである障害を乗り越え、何かを達成することの価値は計り知れない。皆のモチベーション、組織としてのスキルアップとノウハウの蓄積、チームビルディング力、巻き込まれることで、人が次々に育ち組織が継続出来るという事は、事業の継続性に繋がる。個人の出来不出来で終わるのとは雲泥の差がある。何よりも皆で達成すれば「楽しい」のである。
独りで出来ることは限られていることに加え、様々な事業環境や地球環境の変化、人口動態やライフスタイルの変化、自身の加齢効果なども考慮すると、各要素の複雑で微妙なバランスの上に我々の生活やビジネスが成り立っていることが分かる。自分の裁量範囲で自信を持って出来ると言えることは本当に限られている。
従って希望がないと嘆く必要も無いが、自信を持ち過ぎるのも幼稚である。人生「為せば成る」のでは無く「成るように成る」という諦めではなく、生かされているという大人の感覚が最近深く理解出来るようになった。そう考える事が出来れば、もっと肩の力を抜いて生きられる様な気がする。
ただ、自信や希望の有る無しに拘らず、愚直に何かを継続出来るのは立派な才能の一種であることが、最近分かって来た。成功する鍵は「運、鈍、根」と昔から言われる。運に恵まれていることを知り、いつもピリピリしていない鈍なところがあり、一旦始めたら面白みを見つけて継続する根が無ければ、何事も成就しない。古語の中には、この様な人生の真理をかくもシンプルに表現しているものが多くいつも感心する。
私は宗教を持たないが、神のような存在はあるのではないかと密かに思っている。ある作家の言葉に、運命の見極めと希望についての見事な洞察がある。
「実は私たちが自分の運命について関与しているのは、ほんのわずかな部分だけである。私たちは自分の力で日本人に生まれたのではない。運動の才能、歌のうまさ、健康、すべて親や運命から、ただでもらったものばかりである。
これは神からの贈り物なのだ。ただし、神は、不運や苦しみを与えることもある。一見残酷に見える苦しみによって、その人が以前には考えられなかったような見事な人に生まれ変わることを予測しているからである。だから人はいつでも生まれ変わることが出来る。」
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