様々なものに守られてかろうじて現在の自分の生活が成り立っている・・・という事を実感できる年頃になった。気付くのが遅いのでは?というご指摘は甘んじて受けたいと思う。だが、最近大変気になる事、それは物事のEnd to Endを体験する事が少な過ぎて、現代人の多くは「その発祥から終焉まで」を想像する力が恐ろしく減退してしまっているのではないか、という事である。「自分独りで生きている、何か文句ある?」的な手合いが非常に多い。他人が築きあげてきた努力に想像が及ばない。あるいは、こういう事をすると他人様に迷惑が及ぶのではないか・・・という創造力が働かない。昨今の「公共意識」の欠如は酷いものだ。スマホを観ながらの「ながら歩き」はもはや一般化している。しかし自転車や自動車の「ながら運転」には恐れ入る。ある事を一からすべて自分でやろうとおもうと、如何に大変かという事、何と言ったら良いか、物事のEnd to Endを体験してみないとその事ー他者や環境に守られて辛うじて生きている事-がなかなか納得できない。
最近、九州の孤島で自給自足の生活を体験させる「子供合宿ツアー」が人気を博しているという。魚を取り、野菜を育て、水を井戸から汲んで火を起こして料理をつくる。野兎を追って、ナイフで捌いて肉をあぶる。雨を凌ぐ為に、茅葺屋根を定期的に葺くのである。コンビニの切った魚の切り身しか見た事のない子供達は、その一部始終を目を爛々と輝かして体験する。特に、テレビやマスコミにケーションが発達し、また自分の携帯から発信、受信が可能なFacebookに代表されるヴァーチャルな世界に慣れきってしまうと、何事も「すぐ解ったような」気持ちになってしまうものだ。ソクラテスに「無知の知」という言葉があるが、知識的には簡便に知る事が出来るが、「物事の本質が解る」ということから現代ほど遠のいてしまっている時代はないのではないか?大いなる皮肉である。
「End to Endという概念」は、命あるものの発祥から終焉に例えるのが判り易いが、ビジネス、教育、文化・芸術、スポーツなどにも様々な分野で活用できる概念かと思う。繰り返すが、ゼロベースで何か西洋風の料理を作るとなると、どうやって動物を捕獲するのか?捕獲後どう捌くのか、火をどう起こしコントロールするのか?農作物をどう枯らさずに育て上げるか?などなど考えなければ、オムライス一つ作れないのである。ここで大切なのは、それらの自然の素材を活用する為の、「ゼロベースでの創造的な試行錯誤のプロセス」である。ビジネスであれば、事業のユニークさの創造、顧客の選定、案件の獲得、ものづくりやサービスの品質とコストバランスの追及、顧客へのデリバリー、その後のメンテナンスとリピート顧客やブランドの創造など、End to Endの仕事を小さい組織で出来れば一気通貫に体験しておく事が何よりも大切である。最近、HONDAの本田総一郎氏とSONYの井深大氏の交友を記録したNHKアーカイブスを見る機会があった。日本を代表する企業にも、それぞれの希代の事業家に率いられた、きらきらと輝く創世記があった事が見事に示されていて、感銘を受けた。大学卒業後、いきなりブランド大企業に入社し、その分業体制で連綿とやってきたのみの経験で、企業経営が出来る程世の中は甘くは無いだろう。
私見ではあるが、End to Endの概念の欠如は、それが現代の過渡期に新しい価値観やものやサービスを創造して世界に発信する、ひいては「明日の日本を創る」最大の障害になっているのではないか?と私は考えている。物事の本質に迫る為には、インターネットサーフィンでは全くだめで、その生まれた背景や類似性との比較、実例の研究などを様々な文献の精査し、End to Endの体験や知恵を総動員しないと到達できないものである。すべての事にはそれ相応の代償があると言われる。便利になるという事は、その大きな代償というものをよく考えておかないと、失うものはかなり大きい。
最近のコメント