人が仕事を選ぶという考えが一般的だが、本当にそうなのだろうかと思う。この仕事をしていて変かも知れないが、むしろ職業(仕事)が人を選ぶのではないか?
何十年、何百年掛かって磨かれ、専門化された仕事や職業が実は先に存在し、人から人へ連綿と引き継がれて来た。人はそこに参加させてもらい、その道を極めてゆく中で、仕事を通して人生を学び、「生きる意味を問う」というのが本来であった。最近、よい歳をしてその道の探求も不十分なままに、いたずらにより良い(得になる)職を求め、人としての矜恃や品格を持たない人々が日本人に多くなった来た様な気がしてならない。
昔は、世界中で職業の選択の自由が著しく制約されていた。階級や戦争や政治弾圧や差別があり、また社会インフラや教育制度が不十分だったからである。今なお、その様な国々は多く存在する。大工の家に生まれれば、大工になるわけだ。自由に仕事が選べなかったのである。ただ、制約された環境下でこそ、身についた専門性や仕事への哲学が醸成される事がままある。これは職業の選択の自由はあるが、行き場を失っている感の強い現代から見ると強烈な皮肉であり、また、人生とはなかなか複雑ものだな、と思う。
歴史を振り返ると、拡大再生産し企業が大規模化する中で、次第に仕事が分業化し標準化された。これに従って、その範囲の仕事の範疇なら他人を雇ってもこなせる、というジャンルが誕生したのである。専門性の高いものは、標準化し資格化して仕事を切り出した。しかし、名医もヤブ医者も同じMedical Doctorの資格である様に、また名経営者もインチキ経営者も同じ経営者である様に、両者の差は歴然としている。個々の仕事を探究する中で、同じ仕事でも自ずから大きく差別化されてゆく。仕事とは本来そういうものなのである。
ある製品やサービスを創造し、独自に差別化して、自分にとっての顧客にその価値を提供し、その対価を新しい原資として蓄え、その一部を分け合って生計をたてる。その一連のプロセス全体の責任を取るのが経営者である。この基本原則は時代が変わっても世界中全く変わらない。昔は第一次産業に従事している人々が圧倒的に多かった。日々の仕事を通して生計を立てる。時には新たな投資が必要である。その為の貯蓄を含め資金繰りをする。当然過酷な環境変化があっても事業が傾いても、私財を投入することを含め、すべて自分で責任を取る。まだ売れない芸術家達もそうであった。従って私見ではあるが、立派な顔をした人物が多かった。
次第に組織化され分業化される中で、ホワイトカラーと呼ばれるジャンルの人々が誕生した。売上、利益に直接的に関連しないで、給料をもらえる人種である。高度経済成長時代に入ると、大企業に真面目に定年まで働くと都内に家が建ち、年金で十分暮らせる人種が誕生した。その時代はとうの昔に終わっているが、考えてみると日本の2000年以上の歴史の中では、たった数十年の出来事だったのである。にも拘わらず、未だに日本では良い大学、良い大企業志向が非常に強く、各種の予備校は繁盛している。全く理解に苦しむ。そして、すでに大企業になった後に入社したホワイトカラーの人々は、分業化された各自の仕事に従事している。経営に近い仕事をしているホワイトカラーもいるが、経営者とは全く異なる。経営者でなければ、全体プロセスの一部を担当させて頂いているに過ぎない。しかも最終責任は常に取らない形で。そのホワイトカラーの人々が最も声高らかに、職業選択の自由を謳っている。
仕事には様々なものがある。その中には、利益を生み出す事以外に社会的な意義や公共的な意味を持っているものも多い。例えば、警察官、医者や看護婦を例にとると判り易い。スキルや技術はあるけれど、誰でもなって良いものでは無い。実はどの仕事にも多かれ少なかれ社会性、公共性はあるもので、その人の人格や品格や、仕事に対するVisionの様なものを問うものが多い事に気付く筈だ。仕事が人を選ぶのである。職場選択の自由という言葉のニュアンスには、何かこの緊迫感が欠けている。自分という材料を、何らかの貢献出来る分野で使い切って下さい、という謙虚な視野が感じられないのである。この仕事をしていて、この様な覚悟が微塵も見られない方に出会うとがっかりするのである。何故なら、やはり仕事が人を選ぶという要素が避けられないからである。
最近のコメント