新年度を迎えた。どんな事情があれ、桜は咲くし暦は巡って来る。大きな営みの中で人の事情などは取るに足らないのかもしれない。実は、小職、今年末「還暦」を迎えるのだが・・・、暦が一旦ゼロに還るという意味で、自分の原点や「出自」の様なものをゼロベースで考えてみよう、と思った。己の生まれついた環境や先天的な特質が、その後の人生や生き方にどう関わっているゆくのか・・・という事に以前から興味がある。我々エクゼクティブ・サーチの仕事が、その人が「どこから来て、今どこに居て、これからどこに行こうしているのか?」に深く関連する仕事、という事も影響しているのかも知れない。
何故、その肉体にその精神が宿らざるを得なかったのか?(笑)しかも世界で唯一の存在としてである。芥川龍之介には芥川の、チャーチルにはチャーチルの、ナポレオンにはナポレオンの、大鵬には大鵬の、ビートたけしにはビートたけしの・・・肉体と精神の個性的な特徴があるが、「組み合わせの妙」というかある必然性があり、それぞれが複雑に絡み合って、堂々たる「個」を形成しているところが大変興味深い。常識的な美醜を超えて、あの顔、声、体型や所作にこの精神が宿っている。「なるほど・・・!」と思える人が確かに存在する。この仕事をしていると特にそういう想いがある。良きにつけ悪しきにつけ、「この人がこの人である理由」を自ら深堀りして、「自分の仕事」をし、自分の刻印を押すのである。自分を育てて来た環境、境遇、時代(他力)や、自分を作ってきた「必然性」の様なもの(自力)、(これを「出自」と呼ぶとすれば・・・)、一度冷静に振り返り、まずは周囲の人々に「こうとしか生きられない自分」というものを幾分か容赦頂きたい、と思うのである。自分を「だし」にするのは他人の事情よりはDetailを把握しているからだが、自分の特徴を形成する物理的、精神的事情を、出来るだけ客観的に点検出来れば、と思う。退屈極まりなく、「取るに足らない」ものだが、還暦を迎えるという事で勘弁して頂きたい。
幼少の頃、神戸の六甲山と淡路島の双方が望める自然豊かな地でのんびりと育ち、ボーっとしていた。父は海軍出身で自分でビジネスを立ち上げていたが、商売人ではなく、なかなか苦労していた様である。父の仕事の関係で家族で上京してから、何か人生が慌ただしくなった。本来のんびりした性格なのだが、周囲から堰きたてられ「仕方なく」というのが本音であった。まず小学校受験で失敗、地元の小学校では「聖童」と謳われた。(笑)小学校高学年で早くも「受験戦争」に突入し、中学受験で失敗、第二志望校が文武両道の男子校で、伝統あるテニス部に所属、中学、高校の6年間で下積みの末、レギュラーを勝ち取り、公式大会でもそれなりの成績を修めた。高校3年の夏までテニスにかまけ、大学受験でも第一志望校には入れず、浪人を志願したがあっさり両親に断られ、第二志望に入学。テニス同好会に入った。結果、中、高、大と通算10年間テニスを続けた。テニスを通して「体力の限界まで頑張る」度合いとそのストレスへの耐性の様なもの、いわゆる「M的な基礎体力」が培われたのは、この成果である。また、テニスというスポーツは重心が低く強い足腰と持久力が求められる。体型的にはもともと恵まれていたが、(笑)長距離走などの循環器系は強く、それも肉体的特徴の一つである。これが後年の仕事時にかなり有利に作用した。今から思えば、幼少期、思春期、青年期を通して、挫折ばかりだったが、伸び伸びと不自由なく育ててもらった。ぼんぼんだったのである。独立して会社を興し何年も継続し家族5人を養う事は、時代に関わらず大変だと推測するが、両親に感謝する他はない。
就活では第一志望の大商社には入れず、外資系のコンピュータベンダーに入社。日本支社の立場で東証一部に70年余りも上場していた珍しい会社で、この業界の中ではMinorだった。23年間も務めた。成績至上主義で有名な外資であり、営業13年間は「勝ち続ける」ことを要求された。幾度か辞めようと思い迷っていたが、あるきっかけで「営業とは一つの技術体系である。」という言葉に目覚め、何とかトップセールスの仲間入りが出来た。その後、マーケティング、製品企画、3年半の米国勤務などの「4度の社内転職」の経験を経て、それぞれの環境で仕事の専門性を築き、自立しなければ生きられぬ事を知った。面白くもあり、辛くもある23年間だった。「もう十分経験した。卒業しよう」というか「独立しよう」と思い立ち、44歳時点で「ご縁」がありこの仕事に入った。幾分向いていたのか、その後15年間この仕事を続けている。現在の会社は外資系であるが、独立独歩で会社経営を任されていて容赦が無い。5年前から代表になり、リーマンショックや9.11や大震災の余波を経て、なんとか継続している。この仕事は本来、「世の為」という社会性を帯びている面もあるのだが、現実の経営との両立はなかなか厳しいものがある。・・・・何か本当に慌ただしく挫折ばかりであるが、サマリーを纏めてみると、なんだ、意外に単純な人生であった。(笑)
改めて気付いたのだが、小学、中学、大学、就職それぞれの時点で第一志望(Major)には失敗し、第二志望(Minor)の環境で、それぞれ「勝ち負け」を強く意識せざるを得ない環境にいたのだなあ・・・と思う。また、米国勤務時代は、米国系の外資系企業の日本支社から米国本社に向かっての海外赴任なので、日本本社企業から海外赴任とは少し趣が異なる。語学も大変であったが、いつも日本人として何が出来るか?を強く意識する厳しい体験をした。また外国人に対して「負けてはならぬ」という勝ち負けの発想である。ただし、3年半の駐在時代、家族との結束は深まった。現職に至っては、「人の人生のキャリア」におけるサポートする立場にある為、人の意思決定を「待つ」ことが多く、短気な性格の自分にとってはある意味、人生の修養の場所にもなっている。私自身の本質は変わりが無いが、この仕事に出会って自己の精神形成にはかなり複雑味が加わった。15年間やってきて「この仕事を辞めたい、とか面白くない」と思った事は不思議と無い。私が単純だからかも知れぬが、これは一つの幸運なのだろう。最大の魅力は何かというと、経営幹部に数多く寄り添いサポートする中で、「人生は善くも悪くもある。複雑なのだなあ・・・」という事を身を持って実感出来ることである。単純明快ではなく、複雑怪奇でもなく、世の中の大半の事は複雑な二面性を内に包含している事。従って、「常識に捉われぬ、自分の価値観を持つ」事が出来ないと本質が見えにくい。その複雑さや修羅場をくぐり自らリスクを取ることで、その代償として、人間としても「複雑な魅力」を身に付けざるを得ない、という様な事である。
テニス10年、最初の会社で23年、現職で15年目である。不器用なのだが、一つの事を工夫して「継続してやり続ける」のは好きであるし、得手でもあると思う。手前味噌だが、これは「専門性」を培うという意味では必須な資質である。また、受験や就職、海外赴任、スポーツ体験など、Minorな環境で有無を言わせずMajorを相手に「優劣」を競い、「勝ち負け」に拘って生きてきた傾向が強い・・・。しかしながら、勝ち負けの二軸しか存在しない「単純」過ぎる思考構造は確かに危険な部分がある。人は「負け」からこそ多くを学べる。一方、Minorにいて、「Majorブランドを盾に・・・」という経験があまりなく、何事も「上には上がある」と思い知らされて来たので、常に自分より技量の上位者をよく観察し、そこからどう技量を盗むか?に集中せざるを得なかった。これは利点の一つであり、私の特徴でもあるが、翻って「向上心を持って勝つために自助努力するのは当然」という「Winning Culture」を他人に押し付ける傾向があり、人によっては迷惑な話となる。人には「それぞれの価値観」を形成して来た複雑な事情があるからだ。人を指導するのに親切心が欠け、ある意味、私とチームを組む人は時にやりにくい嫌な性格であろうなあ・・・とも思う。
私は、ゼネラルマネジメントには不向きで、むしろ何かの道を追求する「職人気質」が強い。もしかすると、「勝ち負け」の問題と、「道(専門性)の追求」をごっちゃにしてしまっていて、皆に迷惑を掛けている面がある。すなわち、己の「道の追及」の目的が「勝ち負け」になってしまう傾向が強いのだ。本当に強い人間は世間がどうであろうと、人にどんなに比較されようが、己の境地を磨き抜いて一生を閉じることに後悔は無いのなのだろう。私にはそれがなかなか出来ない。弱いのである。放り込まれ、もがいている内に何とかそれなりのスキルを身に付けたと思ったら、大変重要な事を見落としていていて、現在「後追い」で修正を試みている。その様な連続の人生で、懲りないなと思う。
何か書き足りない・・・。多分、あの芥川龍之介が「運命とは性格である。」と看破した様に、自分の性格を形成してきたバックグラウンド(特に、時代背景や家庭環境、思春期の自我形成の軌跡など)と、それがどの様にその後の人生に影響したのか・・・に、触れるチャンスが少ないからだろうと思う。ただ、それは「人かどの人物」になってから書いても遅くは無いのだろう・・・。
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