「自分とは何か?」は哲学の永遠のテーマであると言われる。が、本日のテーマはその意ではなく「自分が自分らしくいられる軸の様なもの」・・・言い方を変えると、「そうとしか出来ない自分を活かしてじっくり軸を作り、それを磨き抜いて生きている人、その技や技術がささやかでも人の為に役立っている様な人を見ると訳なくじーんと来るものだ。何故なのかわからないが、そうなのである。その仕事ぶりをみていると「ああ、やはりあの人だったか・・・」という刻印が押されている。個性といったらそれで終わってしまいそうだが、もう少し言葉を添えると「個性を活かした技術」の様なものである。それを仕事を通して育んできた「自分のコア」と呼んでも良いかも知れない。
最近、「自分のコア」というものについて考えさせられる機会があった。そういう年代になったとも言える。新たなチャレンジをする人々の相談にのる日々の中で、苦しくも日々鍛錬し長年の間に育まれてきた「自分のコア」というものから離れて、違う分野で新たなチャレンジをする事はやはり難しいのでは?と感じている。自分のコアを活かした「となりの畑まで・・・」という言い方があり、「となりのとなりの畑」はやめた方が良い。上手く言えないのだが・・・具体的に話してみよう。
もし私が年齢の事はさておき(笑)、今の生業(なりわい)を離れて今後新たなチャレンジをするとして、例えば、業界的に近いと言われている人材や組織コンサルティング方面に進出するとすると仮定しよう。実はそこにはかなりのチャレンジがある筈なのである。これは何故か?我々Executive Searchの仕事には多分にコンサルティング活動が伴っている。しかしながら、人材をクオリファイする、人をMotivationする、組織を診断するなどの活動は、「人材補充」という具体的な活動がコアになっており、コンサルティング活動そのもので飯を食っている訳ではないからである。
説明が難しいのだが、エクゼクティブ・サーチという本業を日々粛々とこなしている中での「コンサルティング」なので価値があるのだ。コンサルティング専業であれば、歴史的にもブランド的にも大変優秀なコンサルタントの方々が、ノウハウをテンプレート化し日々スキルを磨いている世界があるのである。組織を強化する目的を持ち、有能な人材を具体的に企業にお世話し、そのBefore Afterに身近に接し、クライアント、候補者の双方からのニーズやお悩みに応えてゆく中で、幾多の失敗や成功があった。そこでハンズオンで蓄積されたノウハウや知識、知恵というものがある。それが我々の「コア」である。ところがそれでも不十分で、これを環境変化や時代の変遷に沿って「切磋琢磨している日常」という存在があって、初めて我々のコンサルティングが光を放つ余地があるのではないか?・・・という事である。私共の仕事も調子の波があり、プレースメントをほんの数か月していないだけで、我々のコンサルティングの力も弱まって来る。悩ましい日常で苦労する事が実は大切なのだ。
もう一つ、小さいながらも東京オフィスという組織を代表取締役として率いて5年が経過するが、この経験がエクゼクティブ・サーチという仕事に「命を吹き込んでくれた」のではないか、と感じている。我々のビジネスは、フロービジネスである。案件獲得とそのプレースメントのバランス、品質の維持の為のコンサルタントやリサーチャーの育成と独り立ちのサポートとの両立が難しい。小さい組織にも、人事、経理、総務、経企、マーケティング、営業のもろもろの活動が集約されているのである。その間、お恥ずかしい話なのだが、増資、銀行からの借り入れ、リーマン・ショックでのオフィスの縮小、人員の整理、またオフィスの増床とオフィス環境の一新などなど、常にCashとの睨み合いの中で経営して来た。勿論、経営者としては失格なのかもしれない。特に、一緒に代表を務めてくれているパートナーには迷惑を掛けて来たと思う。が、組織というものの原型、ビジネスというものの原型とはどんなものなのかは、身を持って体験しお互いに切磋琢磨する事が出来たのではないだろうか?それ以前の20数年間在籍した大会社からは学べなかった事である。実はその経験がエクゼクティブ・サーチとして経営層や経営幹部クラスのクライアントや候補者に相対する際、その痛みが想像出来るのだ。それが、コミュニケーションの「寄りすがら」になっているのかも知れない、と最近痛感している。
「器用貧乏」という表現があるが、「自分のコア」づくりと「不器用さ」は深く関連している様な気がする。あまり器用だと、深堀りする前に大事なものを取り逃がすことが多い。以前にも紹介したが、NHKスペシャルで、人間国宝の坂東玉三郎氏の日常を追った番組があった。稀有な天才だが、彼でさえ、「自分は不器用だから、毎日、毎日同じ所作を繰り返し練習している。」と言っているのには驚いた。365日ほとんど休みなく、舞台と稽古の連続である。鬼気迫るものがあった。舞台の演目もその時代、時代の観客の変化も巧みに捉えてゆかないと難しく、それに沿った自身の演技のバリエーションを繰り返し練習しているのだそうである。
「守、破、離」という言葉がある。もともとは江戸時代に川上不白の著書「不白筆記」で茶道の修業段階の教えとして紹介され、その後武道や芸能一般に通ずる教えとして広まったという。「守」とは師匠の教えを守り、反復訓練の中で型をつくり自分のものにせよ、「破」とは、ある段階になると型を破り外の世界にも目を転じて、新しい技術やものの見方を学べ、「離」とは、「守」からも「破」からも離れ、自分独自の境地を開発せよ、という様な意味合いかと思う。この仕事を13年繰り返して来て、つくづく難しい仕事だなぁというのが実感だが、本当に奥が深く、まだまだ学ばねばならない事が山ほどある仕事である。同時に、戻るべき「自分のコア」を強く考えさせられる仕事でもある、と思う。
「守り尽くして、破るとも、離れるとても、元を忘れず・・・」
最近のコメント