前回、トップ案件で敢えて異業界の事業再生案件にチャレンジをされた方の例を挙げた。(具体的に書けず、面白さや臨場感に今一つ欠けてた様に思う・・・)ところで、最近、「人」は人生の節目、節目で、何故「狭き門」にチャレンジせねばならない様な構造になっているのだろうか?と考えることがある。
「人」というのは「ひとかどの人」という意味で、すべての人という意味ではない。ある程度世の中の酸いも甘いも体験された自立した大人というニュアンスも含まれている。常識にとらわれず、自分の価値観で物事を判断できる人という意味でもある。世に言うリーダー達である。「狭き門」とは、そう、後述のキリスト教の「狭き門より入れ」の意味で、一見困難な、人のやりたがらない、世間体も待遇もあまり良くは無い、が、よく考えてみるとチャレンジに足る、そういう機会に挑むという意味である。私共の様に人の人生における重要な判断に連続して立ち会って来てみると、ビジネス如何にかかわらず、一体何故人はチャレンジせざるを得ないのか?という素朴な疑問と、チャレンジしないとどういう事が起こるのか?について思いを馳せることになる。何故ならば、あの時あの方はチャレンジした、あの方はしなかった、ということと、その後のキャリアにおけるBefore Afterを連続的に長年に亘って拝見することになるからである。
私は、ずぼらで小市民、時に損得で動いてしまう、しかも怒りっぽい。しかしたまにはチャレンジしたかな・・・という自らを振り返り、人は何故狭き門にチャレンジするのか、という疑問を抱き続けて来た。古くは有名なキリスト教の、「狭き門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」とは、キリスト教の有名な「マタイによる福音書」の7章13~14節である。そこまで大袈裟な話でなくとも、節目の判断で、周囲から「何故、その様な道を選ぶのか?止めとけ、止めとけ、無難な人生の何が悪い?」と言われつつ、何か運命的に狭き門を選んでしまうことがある事は、ある一定数の方々が経験されている筈である。手前味噌だが、13年前、小職が外資系IT企業から現在の職業に転職した時も同じことを言われたものである。
そう、失敗する事も多いのである。あまり大そうな事は言えないが、最近の日本人全般にはびこる「安定・安全志向」や「横並び」に対する執着には異常なものがある。グローバルに見ると全く話にならないし、まるで子供である。日本人の尊いメンタリティとして、機に及んでは決して「損得」で判断してはならない、という文化もあった筈なのだが、最近は一体どうしたのであろうか?・・・少し力が入ってしまった。ひとごとを外から眺めて、云々することは容易い。問題は自分の問題として捉えた時、その様なチャレンジが出来るか否かなのである。これはその人の「生き方のスタイル」にも深く関連している哲学的な問いかけでもある。ただし、我々凡人にはなかなか難しい事なのだが、歴史的にこの様な道を選び「命を得ただろう」、と思われる人々の具体的な事例を挙げれば、意外な程に多い事にいまさらながら驚くのである。
古くはイエス・キリストや仏陀をはじめとして偉人や芸術家と呼ばれる人々は共通してこの様な道を選んでいる。現代でみてみると、スティーブ・ジョブスやハーバード大学を中退したビル・ゲイツをはじめとする国内外のベンチャー起業家たち、国内での安住を捨てアメリカ大リーグにチャレンジした野球選手たち、桐朋音大から国内での活動を打ち切り、コネクションも無い当時の一流の指揮者バーンスタインに強引に弟子入りした指揮者小澤征爾氏、イタリアに単身で渡り、長年ローマ史を研究し15巻に及ぶ長編歴史大作を描き上げた作家の塩野 七生氏、晩年女優をかなぐりすててユニセフ大使としてアフリカに骨を埋めたオードリー・ヘップパーン女史、などなど挙げれば枚挙にいとまがない。市井の無名だが心ある人々の例は更に累々と積み上がっていることだろう。いずれも体制や現在の安住を捨て、敢えて辺境に身を投じた人々の連綿とした歴史がある。
翻って、私共の廻りの方々を見廻すと、私共のお世話した企業経営者、CFO、営業本部長、マーケティング本部長、工場長など、様々な形ではあるが、「体制側からリスクを承知で、辺境へ身を投じ」ている方々が意外に多いことに気付き、はっとする。その際、チャレンジにリスクがあるのは確実で、そこでの成功は誰も保証してはくれないのである。そういう経験を多くこなされている方々の中には、苦境から安泰状態に回復できたところで、その環境に安住するのを良しとせず、次の機会にチャレンジしてゆく方もいらっしゃるのである。全神経を集中して困難なゴールにチャレンジしている時には、時としてその人の能力以上のものが発揮され、それが人を大きく成長させるのかも知れない。環境に安住し自己の能力のストレッチをしない人種と比べると、同じ能力でもチャレンジする側に軍配が上がる様に思える。また幾つかの修羅場を経験されている方は、危機対応の予行演習がなされていて、本当の危機に際しても案外どっしりとしているものである。安定一辺倒の人生で初めての大きな危機に直面すると、余程の方でも慌てるものだそうである。もしや、一見、安住の地に居続けようとする事自体が、その方の人間形成にとっての本質的なリスクなのか?そう考えると何か安心する。少なくとも、「魂の自由」という様なものを結果的に得ている例が多い様な気がするのである。
私共の案件の関連でも、今この時点でも数人から数十人の方々が、人生の節目でチャレンジするか否か、うんうんと悩んでいらっしゃる、と思う。まだその機が熟していない為チャレンジするのは早計であるケースもあるのだろう。従って、組織の大小や企業の成長ステージは別として、ある辺境へのチャレンジには、不思議と何か偶然性の強い「そうせざるを得ない要素」が絡んでいる事が多い。「機」を仕組まれている感覚である。但し、その「機」を気付く人と気付かない人には分れてしまうのは厳然とした事実である。また、面映ゆい表現だが、「私を捨て世に返す」要素が重なると、辺境へのチャレンジも、常識的な成功、不成功はべつとして、一本筋の通ったものになる傾向が強い。その当人の顔が立派に見える様になるのは、私だけだろうか?元旦のテレビ番組で偶然にも晩年のオードリー・ヘプパーンの素顔が放映されていた。アフリカで最貧民地区の子供を抱いている。何とも言えない充実した、人生の酸いも甘いも噛み分けてきた立派な顔をされており、大変感銘を受けた。こうしたことは不思議であり、大変面白い現象かと思うと同時に、立派な顔を作る為にもしや人は生きているのかも知れないとも感じたのである。
こう書いてみると、チャレンジしないのは「人生の大損」の様な気もする。(笑)しかし、チャレンジしない人も多いのも現実である。
「狭き門へのチャレンジ」をする気骨のある方々に幸あれ・・・
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