他人と比べるより先に、やるべきことがある。それは自分自身を十分に発揮しているかどうか、の点検作業である。またはチームの場合、今ある陣容なり人的リソースの持てる力をまず十分引き出しているかどうか、である。再三、当たり前のことを書くのだが、「当たり前」のことが「当たり前」に出来れば、大抵の場合、人や組織は世間標準から突出することになる。何故なら、そう出来ない人や組織が世の中の大半だからである。今回は組織は別として、与えられた自分自身を過不足なく発揮するという事は一体どういう事なのか?に焦点を絞ってみたい。
脳の活用域は、かのアインシュタインでも一生涯の中で10%に満たないという。潜在意識を含め、膨大な脳の領域を実は活用していない事はよく知られている。身体の活用もまたしかりである。現代人の身体の潜在能力の活用度は低い。原始人は速く走り、長く走れ、高く飛び上がる事が出来、重いものをもって何十キロも歩くことができ、遠くの物音や遠くの動向がよく見えたという。視力は6.0というから驚く。人類が食物を貯蔵する以前の話なので、「その日の獲物を確保する」という明確な目的(必然性)が本来の能力を伸長させたことは想像にかたくないが、運動能力、視力、聴力、柔軟性、記憶力などの現在人の能力の退歩は著しい。医療と食糧事情により平均年齢は確かに伸びたし便利にもなったが・・・。考えてみれば、本来天から与えられたフィジカルな能力(脳や身体能力)を実はほとんど活かさないうちに老化してしまうのが現代人なのである。
従って、アンチエイジングなどと人と競い合って右往左往するよりも先にやるべきは、「与えられた自分自身を過不足なく発揮するにはどうしたら良いか」という点に尽きる。55歳でロードバイクをはじめたが、やはり若い人には叶わないということは勿論であるが、65歳前後の初老のベテランバイカーの豪健ぶりに舌を巻いた。訓練すればやはり違うなぁ・・・というのが素直な実感である。ということは、55歳前後からでも気をつければ、本来の自分に戻れるのではないか?というのが私の仮説である。
「自分自身を最大限に活かす」・・・若いうちはしなやかで、強靭で持続性、瞬発力などは当たり前で特に気にもしないものだ。しかしこの発想は、自分を含め、特に訓練をしないで熟年期に入りつつある人々には、限られた人生を生き抜くのに必要な考え方だ。何故なら、多分75歳ぐらいまで元気に働いて当然という世の中がすぐそこに到来するだろうからである。「若く見える」のが大切なのでは無く、体の中身を柔軟性を持って若々しく保ち、精神的にもいつもチャレンジできるという状態をキープすること、外見も「歳なりに溌剌としている」事が重要なのだ、と私は思っている。
さて、人の外見からは体の中身の質は判りにくい。精神内容の事は置くとして、筋肉量、基礎代謝量、反射能力、体の柔軟性、中性脂肪値などの人間のフィジカルな中身のことである。自分自身を最大限に活かす為の、体の中身である。先日縁あってあるパーソナル・トレーニングのコーチについた。30歳前半か?米国でスポーツ医学を数年勉強後、シルクド・ソレイユに在籍していたという。失礼ながら貧弱なイメージで小柄である。入門のコースメニューを一緒にこなし、コーチの潜在力の高さ、特に筋肉を連動してパワーを発揮する時に凄いパワーとなって蘇るのには感心した。
私は身体が非常に固い。特に肩甲骨まわりと股関節が異常に固い、つまり柔軟性が乏しいという診断結果があり、その柔軟性を取り戻すことと、前のめりになって猫背に近く、応用動作をすると体がふらつくので、体の軸、いわゆる「体幹」をゆっくりと鍛えるトレーニングを今後プログラムしてくれると言う。コーチの体の動きを見ていて、筋肉面よりも、それぞれの筋肉を連携させる関節の可動域の広さ、特に「肩甲骨」と「股関節」の柔らかさには目を瞠はるものがあった。
コーチは私の肩の硬さをみて、筋肉量はそこそこなのだが、「各筋肉が骨に癒着して」しまっていて固まっていて、各筋肉をそれぞれにばらしてあげれば、その筋肉に任された各々の役割を果たす、というのである。筋肉は連動して順繰りにその役割を果たして行くのだが、特に肩甲骨は手と体、股関節は上半身と下半身を連動させるKeyとなる部分で、それぞれの筋肉の部位をいくら鍛えてもその連動部分の柔軟性が無いと、著しいパワーロスになるという。要は、体の「軸」と「連携部」を鍛え直すのである。
これは我々の仕事にも言える。各人のそれぞれのスキルは優れていても、仕事の「軸」(基本)がしっかりしていないので応用動作に支障をきたす、またそれらを統合して一つのパワーにする「連結部分の柔軟性」が欠けている為に大きなパワーとなりにくかったり、スムースなプロセスが阻害されるケースは散見される。また個人が組織は上司に「癒着」して「指示待ち族」になっていると、自分で物事を考える習慣が持てなくなる。一旦、「ばらす」必要がある。よく海外支店に赴任して現地で裁量権を持たざるを得ない環境に追い込まれて、困難を乗り越え自分の能力を再発見する人は実に多い。個人のパワーロスもしかり、チーム活動になると、プロジェクト・マネジメントや経営マネジメントなどはこの典型で、仕事の「軸」をぶらさずまとめ、タイムリーに各人の能力を「連動させ」ある一点にパワーを集中させる働きなのである。
何か目的を達成したり、本来の自分自身を発揮するには、「軸の設定」、「個々の部位よりも連携部」というのは重要な示唆であるが、もう一つ忘れてはならない事がある。それは「目的」を持つことだ。また当たり前なを・・・と怒らずに聞いてほしい。出来れば「必然性」のある環境に自分を追い詰めることである。例えば、前例でいうと「家族の為に今日の獲物を確保する」ことである。目的に貴賎は無い。とにかくある具体的な目的を達成する必要をもつことだ。「幸せになりたい」「美しくなりたい」「老いを遅らせたい」「女にもてたい」という様な形容詞的な茫洋としたものではなく、具体的な目的である。どういう幸せを手にするのか?美しく、若くなって何をやりたいのか?その達成目標は?・・・そうすると、それを達成する為に、それぞれのタイミングで各部位がどう協業し連携してゆかなければならないか?かを理解でき、その反復訓練により身につくのである。
一旦、正当な目標なり具体的な目的が設定されると、人間の意識下では各部位のその達成のための連携を確認し、どういうタイミングでそれを「総動員」すべきかを判断する。従って、「茫洋とした願望」のまま、アンチエイジングや英会話スクール、ゴルフレッスンなどに通っても身にならない。ある危機を察知して、潜在意識が動員され、ある目的達成の為に体のあらゆる機能を連携させるという状態が作れないからだ。これは言われてみれば当たり前なのだが、通常気付かないエポックの様なものかも知れない。トレーニングの為のトレーニング、レッスンの為のレッスンをやっている。トレーニング・ジムに通っている事が合目的化している状態である。日々の仕事の中でも、ルーティンワークが目的化してしまうケースは多い。しかし、具体的な目的(必然性)を持ったとき、人の上達は見違えるほど早い。
適切な目標を設定していない為に、自分の潜在力を引き出せていない方々が多いのではないだろうか?
私の趣味の分野での直近の目的は、チャンピョン・ゴルフコースでコンスタントに90を切ることだ。その為には、どうしてもドライバーの飛距離をあと10ヤードでも15ヤードでも伸ばしたいのである。何故なら、自分の飛距離の辺りにハザードが仕掛けられている事が多いからだ。体の柔軟性と体の軸を鍛えることで本来の自分を取り戻す。トレーニング・コーチは「それは十分可能でしょう!」との事。この一言で私は嬉しくなり、体を鍛える前にゴルフクラブを7年ぶりに新調してしまった。これはどうも辻褄が合わない様な気がするのだが・・・。
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