自身も反省しきりであるが、最近、「深く考える」という事をしなくなった。THINKという言葉は、英英辞典によると、第一義に、to use the power of reason;make judgement or careful considerations, use the mind to form ideas and opinions
とある。物事の因果関係(理(ことわり))の力を行使する、すなわち、深い判断をする、または注意深く熟慮する、アイデアや意見を持つ為に知恵を働かせることで、我々が「こう思いました」・・・というニュアンスで、I thinkというのをよく使うが、本来その様な軽い意味ではなく、深く考える、熟考する、use the mindすなわち、知恵を働かせる、という意味あいが強いことが判る。こう思います・・・というのは、I supposeに近い。
深く考える、知恵を使う・・・為には、何が必要なのか?そういう「きっかけ」が必要なのである。やはり、金銭、労力、心遣い、時間などを投資して、現場、現実、現物をこの身で体験し、五感、六感で味わい、痛みや悲しみや喜びを知り、その上で深く考えある「知恵」に到達する。「眼高手低」という好きな言葉があるが、目線を高く保って現場の泥臭い仕事を厭わない姿勢の事を言う。従って、疑似体験だけではなかなか知恵は形成されない。ただ、読書だけは、その中での例外とされている。何故だろうか?最近、ある作家の言葉が胸に突き刺さった。
「総じて安易なストーリーを追うものとして、私の幼いころ漫画に耽溺することを禁じられた。文字を読み、その印象を、自分で視覚的心像風景に置き換える。その操作が人間の精神、魂、感性などを掘り起こし、磨きあげる過程が必要なのである。しかし漫画やテレビは、お仕着せのイメージを我々に押しつけた。自分で解釈し、咀嚼して味わうという操作は一切しなくても、漫画の主人公は、はっきりとした生身の人間のように具体的に、わたしたちの目の前に現れる。」
私は、長い間、文字文化と映像文化(マンガも含め)が人に及ぼす影響について興味を持っていた。感覚的には文字が重要とはわかっているのだが、何かどう違うのかを知らされた様な感覚に囚われた。なるほど、なるほど。そうであったか・・・「文字を自身の頭の中で心像風景に置き換える過程」が、決定的に重要で、その訓練がされている程、深く考える能力が身につくのか・・・という事は、テレビや漫画やインターネットばかりでは馬鹿ばかりになる筈である。既に映像化されていて、頭で変換する(考える)必要がないからである。勿論、映画の名作や最近のアニメには深く考えさせられるものが多いのは事実ではあるが・・・
最近、日本人の多くに老若男女を問わず、「遠慮」が無くなったと言われている。「遠慮」の反語は「短慮」であり、遠慮とは遠くを慮る(おもんばかる)ことで、深く考え将来を慮る配慮を持って行動する、という本来日本人が海外に誇るべき美しい文化の根本要素だった筈なのに、残念である。
私共の仕事の関係上、候補者との面談が多く、少しお話すると、その人が深く考える習慣を持っているかどうか・・・は即座に判ってしまう。後でそう言われてみると、深く考える方は、なんとなく奥ゆかしく、話が面白い。また、過去に過酷な体験もされていて、それを「さらっ」とお話になるケースが多い。いざとなれば果敢な行動力を内に秘めていて、それが人全体の外観にも影響してくる。だから、外観は重要なのである。我々のリサ―チャーは、よく顔写真を探し、その人のプロファイルを想像する。海外生活をした事があるのか、ないのか?一般的に日本人は写真映りが悪く、無表情である。海外生活が長い方は、勢い表情が豊かに訓練される傾向があるらしい。こういう楽しい話は、この仕事には尽きない。何故なら、人間の観察ほど、興味深く楽しいものは実はないからである。(内緒であるが・・・)
さて、我々の仕事においても、深く考える必要があって、一体何の為にこの仕事をしているのか?誰に対してどういう価値を提供し、その見返りとして報酬を頂いているのか?時代の流れに上手く適応できているのだろうか?特に日本の我々の業界の世間に対する認知度が低く、優秀な人材が集まってくるケースが少ないのは、何故なのだろうか?などなど、日々考えている。小職も既に「粋な」年代に入って久しいのだが、そろそろ、我々の仕事を引き継いでゆく為に、「知識」や「知恵」やノウハウと呼べるものを、何とか知的データベースに蓄積してゆく作業を始めなければならない、場合により、これを広く世間に公開してゆく様な事も必要なのかな、と考え始めている。
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