今回の被災者の方々に心よりお悔やみを申し上げると共に、その後のサポートに昼夜を問わず献身的な活動をされている方々に御礼を申し上げたい。
震災の起こる二か月程前だろうか・・・曽野綾子著 「老いの才覚」を読み、大変感銘を受けた。氏は、長年、世界各国の最貧地への献身的なサポートを継続されていて、日本財団の理事長を10年間無給で勤められた事はご存知の方も多いと思う。読まれた方もいらっしゃると思うが、ニュアンスを正確にお伝えしたいので、僭越ながら、特に感銘を受けた部分全文を抜粋させて頂く。
「私はアフリカをかなりよく知るようになってから、人間の一生に与えられるものに関して、ずいぶん謙虚になりました。一生の間に、ともかく雨露を凌ぐ家に住んで、毎日食べるものがあった、という生活ができたのなら、その人の人生は基本的に「成功」だと思います。もし、その家に風呂やトイレがあり、健康を害するほどの厚さや寒さからも守られ、毎日乾いた布団に寝られて、ボロでもない衣服を身に付けて暮らすことができ、毎日、美味しい食事を取り、戦乱に巻き込まれず、病気の時には医療を受けられるような生活ができたなら、その人の人生は地球レベルでも「かなり幸福」です。もしその人が、自分の好きな勉強をし、社会の一部に組み込まれて働き、愛も知り、人生の一部を選ぶことができ、自由に旅行し、好きな読書をし、趣味に生きる面も許され、家族や友達から信頼や尊敬、好意を受けたなら、もうそれだけで、その人の人生は文句なしに「大成功」だった、と言えます。」
なるほど・・・と思った。<strong>「輝くような知恵」</strong>とはこういう事を言うのだろうと思いつつ、日々の自らを反省した。特に、最後の「大成功」だったと言える基準の置き方である。氏の長年の海外での経験や実績に裏付けられた重い言葉だ。少なくとも、今日本で世間的に言われている成功者像とはかなり隔たりがあるのではないだろうか?
今日本人のかなりの人々が与えられている恵まれた環境の上に立って、自らの意思で仕事や余暇や成功や失敗を選ぶ自由(権利)を有し、それが社会的にも役に立ち、出来ればチームで何かを達成する様な機会に恵まれ、友情を知り、また結婚や離婚や恋愛や失恋を通して「愛」や「人生」を知り、限られた周囲の人々からだけでもいい、信頼や尊敬をうけられたなら、それは世界という舞台で考えると、それ自体が「大きな成功」ではないだろうか?という問いかけである。
世間的に目立たなくとも、日々を淡々と生き抜いていらっしゃる人々の中にも大成功者が存在する、と同時に、世間的な所謂成功者の中には、この成功基準とは大きくかけ離れていてしまっている人も存在する訳である。私見としては、この様な事を正面切って、自信を持って言える日本人リーダーが最近非常に少なくなっている様に思える。「グローバル人材」とはこの様な人材、すなわち、グローバルな視点から過不足なく自分の置かれた環境を評価でき、甘んずることなく、それに応じた人としての「何らかの貢献」を考え、実践できる人材を指すのだろう。
特にこの本を読んだタイミングが震災前であり、今回の震災が起こった時には何と言ったら良いのだろうか・・・複雑な心境だった。日頃、海外で起こっている事は身を持って感じにくく、自分を含め、我々があんな不幸や災害を被ることはあり得ない、と思い込んで暮らしてしまっている。しかし、今回被災された方々は基本的な生活のインフラが保障されず、日々の生活を何とか乗り切るという段階を今体験されている。それは日本中のどの地域で起こっても全く不思議はない事柄なのだ。地球なり宇宙の大きな営みの中の、稀有なバランスの中でなんとか日々を生きている・・・という当り前の事を思い出させてくれると同時に、被災した訳では無いのに、日常的に、基本的なインフラや生活、安全のレベルが、大変低い水準で生活せざるを得ない多くの人々が海外には存在している、という現実に身の引き締まる思いがする。日本は世界でもかなり恵まれている国であった、と改めて実感させられた。
「幸せ」や「人生の成功」のレベルをもう少し謙虚に引き戻すことで、見えてくるもの大切なものがある・・・。
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