謹賀新年。
年初に思い立ち、久々写経を試みた。ほぼ10年ぶりである。
まず気付いたのは、体力、気力の減退である。以前は一息に書けたものだが、般若心経全文280文字前後かと思うが、途中で休憩しないと書けないのである。写経をご経験の方はすぐ察知されると思うが、まだ未経験の方は、お手本の上からなぞるのに何の困難があるのだろう、と思われると思う。ところが実際にやってみると、まず小筆が小筆らしく繊細な線を出す為には、筆圧を自在にコントロールする技術と背筋、腹筋(笑)が必要なのである。でないと、細い線をキープ出来ない。さらに、なぞりながらも、自分の書きグセがあちらこちらに顔を出してくるので、なかなか綺麗に揃わない。従って、しんっと静まった良い字で280文字を揃えるとなると、これは一つの技量である。普通はその時々の心のみだれ、体調のみだれが如実に反映してしまい、書き終えたものをじっくり眺めると、何か気恥しい思いに駆られる。まっ、仕方がない、これが今の自分なのだろう、と妥協して今年の写経を壁に貼った。
写経の場合はきまった文言を反復してなぞるという行為ではあるが、文字を書く、という行為そのものに、脳の活動の活性化に関連した意味がある行為であることは昔から知られている。文字を書くという機会が少なくなった。PCの普及もこの傾向を加速している事は間違いが無いが、文明の進歩が人間の内的な成長を妨げている皮肉な例は最近多く気付き大変気になることではある。
さて、ものを書く、ある考えの塊を文章にして発表する、という行為も減少傾向である。更に、文章を読む、読み説くという機会も若者層を中心に激減しているそうである。日本語には「内省する」という美しい言葉があり、前述の二つの「読み書き」の動作は内省活動という人本来の内的な活動に密接に関連している。身近な様々な事象の喜怒哀楽の中から、その奥に微妙に隠されている密かな理由を推測し、変わらぬ大切なことを再認識し、わが身を振り返ることが「内省」であろう。
私共の様なビジネスに身を置いていると、人々の微妙な内面に触れてしまうことも多く、年初には、「あの時の発言はこういう意味だったのか・・・」「何故、あんな事を言ってしまったのだろう・・・」「日頃は気付かなかったが、去られて見ると、なかなかの人物だったなあ・・・」などと、内省のオンパレードとなる。内省が多いのは、ある意味、職業柄ということはあるにせよ、中には、この人は内省したことがあるのだろうか?という様な方に遭遇することがある。思い込みが激しく、多面的な価値観を認められない。壮年に近い方は強固な思い込みを改善できないケースが多く、それが「老いる」という事なのかもしれないが、ある程度若い層の方々にもし内省の機会が少なく、「読み書き」の激減がその現象に密接にリンクしているとすると、事態は深刻である。
人の上に立つリーダーには、「コミュニケーション能力」や「グローバルにものを考える視点」が重要であるとは良く言われることであるが、「力」ではなく「言葉」で人をモチベートし、突き動かす能力という風に考えると、誰にも判り、シンプルだが示唆に富む「言葉を書き、話す」ことが如何に重要な能力であるかということに突き当たる。グローバルな様々な人種にも通用しうる論旨、モチベーション力、人間性に対する洞察力などが無くて、国際的に通用する訳がないではないか。英語の前にしゃべるべき内容を持つ必要があるのである。最近の政治家から心を打つ言葉が聞かれなくなった・・・
「読み書き」はなんと言っても最重要なスキルである。自身を含め更なる研鑽が必要である。何故なら「言葉は命」であるから・・・
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