新年に当たり、何か縁起の良いものをと考えたが、やはりずっと気になっている事に触れたい。「矮小化力」と言うと、聞き慣れないし意味が伝わりにくい。自分を何ほどのこともない、と見据える力と言ったら良いのだろうか?自分を実際より大きく見せたい、立派に見せたい、賢く見せたい、のは心情だが、功なり名を遂げた方々ほど、自分を矮小化する事で行動に躍動感をもたらし、その結果、その人の品位を保っている事が多い。
小職は来年このビジネスを始めて20年が経過し、先日前期高齢者の仲間入りをした。やれやれと少々感慨にふけっていた矢先、大先輩からご結婚の知らせが届いた。82歳だと言う。感嘆すると同時に、「この歳で感慨にふけっている場合ではない!」と反省した。先日その結婚式に参列し、大先輩諸兄の前で何故か主賓としての挨拶を仰せつかった。現職が少ないのだろう。元々私は緊張民族である事もあり、だんだん舌が乾いて喉がカラカラになって壇上に立ったのだが、どうだろう、意外にも落ち着いて話す事が出来た。年の功というものなのだろうか?
「あがる」という現象は、自分がどう見られるか?について不安感があり、少しでも大きく見せたいという気持ちからだと思う。82歳にして再びの新婦とのご縁を実現された大先輩に対し、どうServeすれば満足して頂けるか、に焦点を絞り、自分を矮小化する事に躊躇が無ければ、落ち着いて喋ることができる、という事を知った。
この様な事は中年以前は全く気付かなかった。現職の経営者の方々の中にも、はっきりと認識してる人とそうでない人に分かれる。自分を矮小化する力とは、いつでも「自分を何ほどのこともない」と考え、果敢に行動出来ることを指す。これをやっては、役職上の面子が立たない、恥をかく、損をする、面倒くさいなどの精神的、経済的、肉体的な不利益を受け止め、奉仕すべき相手に尽くすことは容易いことではない。これは宗教的な功徳とは関係がない。卑下したりプライドを捨てて、と言うのともニュアンスが異なる。むしろプライドや相手からの信頼を守る為に為す行為である。
幾つか例を挙げてみよう。
切羽詰まった場面を想定すると、分かり易い。例えば、オリンピック競技での金メダルのかかった決勝戦である。こういう状況で、発想を転換し、スポーツを観戦している方々に如何に白熱した試合を披露して真の満足を感じてもらうことに集中する。勝負は時の運である。競技者は観客を喜ばせる為に遣わされた使者の様なものだ。これも矮小化力の一つである。
昔、小学校の運動会で、6年生の小児麻痺の生徒が体を大きく揺らせながらグラウンドをゆっくり走るのを見た担任の女性教師が、突如一緒に走り始め、満場の拍手と共に一緒に完走した光景を見たことがある。何か異様だが感動的な光景だった。対面や体裁よりこの生徒へエールを贈る事を優先し行動した。この教師も「自分を矮小化する力」があったのだろう。
人を感動させたり、「ああ、この人に付いて行こう」と思わせたり、心からある事を詫びたりする際、必ず仕手側か一旦自分をゼロの状況にする必要がある事がある。これが案外難しい。芸人が人を喜ばせたり、泣かせたりするのも同様である。仕手側が一旦自分を捨てなければ良い芸は出来ない。
経営者の中にもこれに長けた人がいる。自分を客観視できる能力と言ってもよい。人類の歴史の中で登場した名経営者と比べれば、自分は何ほどのこともないことは容易に理解出来る筈である。にも拘らず、無闇に威張りたがる人は存在する。たまたまこの役割を担い、企業の成長や時価総額や顧客満足の向上を託されているに過ぎない。それも十分達成出来ていなければ、経営陣としての責任を果たしていない事になる。何も威張り散らす事はないのである。
かつてアップルの創業者スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の講演の締めくくりに学生達に贈った言葉がある。
Stay Hungry,Stay Foolish. 貪欲たれ、愚かであれ!
Hungryとは渇望せよ、Foolishは世間の常識に牙を抜かれるな、という程の意味で、稀代の起業家らしい言葉だ。これも自分を矮小化し、既成の概念に囚われず思い切って行動せよ、と同義であると私は解釈している。
自身の矮小化はいつ如何なる時も出来るが、卑下する訳でも無く、自分のやるべきことを思い切って行動に移し飄々としている。またその人柄に独特のユーモアが漂えば言うことはない。こういうリーダー達に少しでも近づいてゆきたいと思う。
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