前回、前々回に続き、グローバルコミュニケーション能力についての鬱憤を晴らすべく(笑)、最後にどの様な局面や経験を経てそれが育つのだろうか・・・という件について私見をご披露することを許して頂きたい。これがなかなか難しい条件なのである。
- 国産グローバル企業の場合、大半が海外赴任と言っても日本人集団として組織対応しており、個人としての見識やスタンスを国際舞台の中で披露し、利害をかけ民主的な議論の展開である成果を勝ち取るという体験とは程遠い。
- 外資系グローバル企業の日本支社の場合、ある特殊な立場で無い限り、既に敷かれたフォーマットの上で本支店間の力関係を前提としたものであり、正当にフェアな議論が展開出来る余地は少ない。
では、本来の個人のグローバルなコミュニケーション能力が問われる環境とはどの様なものか?
・国際利害が絡まる各国幹部クラス同士の議論・調整。
・単独で海外赴任し、自国の利益と相反する他国の代表との議論。・複数の他民族の会合で、合意 形成のリーダーシップを自ら取らねばならない場合。
・自分の過失等を複数の他民族から糾弾され、それに対して自国の利益を代表して弁明しなければ ならない場合。
・夫人同伴のパーティー席上での壇上スピーチ。
・経営会議などで、ある事業のリソース獲得の為のプレゼンテーション及びネゴシエーションを英語で 行う場合。
いずれにせよ、
第一に、異文化の中での孤立無援の状況下である必要がある。
第二に、自分の立場を明らかにし相反する利害関係者と折衝する、説得する、何かを勝ち取るというような、切羽詰まった状況下。
第三に、その結果として、何度か自己の英語コミュニケーション能力の低さを身体的な経験として痛感すること。また彼等のコミュニケーション能力の高さに舌を巻く経験を積み重ねること。
これらの必要条件がないと、なかなか本来の意味でのグローバルコミュニケーション能力の上達は覚束ない。もし望めるのであれば、良きメンターがいれば、上達のスピードは飛躍的に早まる。
ここで議論の対象にしているのは、経営幹部あるいは何らかの形で日本を代表するような、影響力を行使するような立場の人々に対してであり、英語力そのものを武器に世渡りしている人々は対象にしていない。仕事が出来る人々に英語力の訓練をする方か、その逆の人々に仕事を訓練するよりもはるかに容易いのは、いつの時代も変わらぬ事実である。仕事が出来、そのポテンシャルを有する日本人の経営人材の中に、グローバルコミュニケーション能力にも長けている方々の絶対人数が少ないのが、何とかならないものか?と常々感じている点である。既にその苛烈な環境の中で、自信を持っていた筈の自分の英語能力をずたずたにされて苦しんでいらっしゃる方も、それを克服して見事にグローバル人材として名乗りを挙げている方もいらっしゃると思う。
ただ気になるのは、その方々の絶対数が少なく、今後日本人がグローバルな環境の中で、欧米人のみならずBRICsの人々やそれ以外の国々の方々と、堂々としたフェアな議論を戦わせ、日本の良さを知ってもらい、相手の価値観も尊重しながら、共存共栄のリーダーシップを取らなければならないシチュエーションが劇的に増えて行くだろう、という点である。
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