当時、国連難民高等弁務官だった緒方貞子氏の国連のFarewell Speechが放映され、偶然にもこのスピーチを聞く機会に恵まれた。短く、歯切れの良いスピーチは氏の十八番(おはこ)であるが、なかなか巡り合う事の出来ない名スピーチだったとの評判が高い。英語の達人である事は周知だが、ほんの3分程の長さに今までの仕事の振り返り、国連の方々に対する感謝と讃辞、恵まれない子供達への想い、それに対する実践・・・自分の生き方のスタイルなどが凝縮された話が盛り込まれていた。小さな声で全く表情を変えずに淡々と話されるのだ。にも拘わらず、国連の多くの方々の涙を誘い、別れを惜しむスタンディング・オべーションに包まれたのである。
以前これと同じ様な光景をどこかで見た様な気がした。それはかなり前になるが、名チェリストのパブロ・カザルスが国連に招かれ、現役最後となると思しき演奏を行った時の反応だ。当時90歳を超えていたと記憶しているが、人々の平和を念じた短い想いの籠ったスピーチの後で、たしか、「鳥の歌」という無伴奏ソロの曲目を弾いた。この世界的な名チェリストももう現役時代の技量はとうに衰えている。震える腕で大きなチェロを息絶え絶えという感じで、もうテンポも楽譜通りには弾けない、大きく抑揚のある演奏だった。しかし、場内は異常な雰囲気と盛り上がりに包まれた。国連に参加した人々のすすり泣きがテレビ放映でもはっきりと判る感動的な場面であった。
引用するのは少し憚られるのだが、許して頂く事にして、もう一つのエピソード。現在の皇后妃殿下がアフリカの最貧地区を訪れた時のテレビ放映だった。アフリカの最貧地区の状況は、テレビという限られた時間の放映の中だけでも、その悲惨さは伝わってきた。視察の途中で、妃殿下が、突然、現地の母親及び子供たちの円陣に入って行かれたのである。そして子供達の手を握って、いきなり、英語で歌を歌い出された。ゆっくりとした美しい曲だった。確かに歌は全世界共通言語である。子供達にも何かが伝わった様子だった。これまで国賓でこの様な事をされたケースは限られるのだろう。とても温かく感動的で、訳もなく周囲の涙を誘った。グローバルに通用する教養なり、リーダーシップとはこういう事を指すのだろうと感銘した事を覚えている。
3つのエピソードを通して・・・
「グローバル人材の育成」なり、グローバル競争議論が華やかであるが、言語力や海外の人々と議論する為のテクニックやスキルセットなどは、あくまで副次的なものではないか、という点である。最終的には、政治にせよ、ビジネスにせよ、芸術にせよ、「個」と「個」のぶつかり合いになる。人の生き方のスタイルや信条 :所謂広い意味で「人間性」「リーダーシップ」と、ひた向きにあるものに打ち込んできた道のり、行動の伴った「実績」は、グローバルにどこでも通用するもので、人々は感動しそれに賛同する、あるいは、「価値」を認め一目を置く。この前提があってはじめて対等な交渉が始まるのだと思う。。これが本義であって、本義が不在の状況でスキルやテクニックをいくら磨いても、日本でも勿論、ましてはグローバルには通用しないのではないだろうか。
敢えてこの様な話を持ち出すのは、最近、特に政治、ビジネス、アカデミアなどの分野で、気骨のある感動的な人物が激減しているのではないか、何故なら、「ああ、こんな日本人がまだいるんだ、いいな・・・」という事がまだ昔はあったが、最近ではほとんど見かけない。また、その様な真摯な姿勢や意地を持った人材がいても、「簡単におちょくる、悪しき文化」が日本に根付き始めていて、まるで深く考える習慣や人物を軽視する風潮がある様な気がする。テレビの低俗番組の影響だろうか?勿論、真面目一辺倒がすべて良い訳ではない。笑いやピリッと辛い皮肉は人生の円滑油であり、「落語」の文化に象徴される様に文化水準でもある。だがテレビで蔓延る現代の日本の「笑い」には、本来の意味でのユーモアやペーソスが足りないのだ。従って、世界の人々に見せても何が面白いのかが判らないのではないか、と思う。ほぼ毎日低俗な番組が放映されると、まだ自我が確立していない子供達にとっては、それを真に受けてしまうケースも多いと思う。まず、言葉使いから文化は乱れ、言葉が乱れると「複雑な考え方」が出来なくなるそうである。複雑に考えられるのが大人である。日本人の国民総幼稚化が叫ばれて久しい。
さて、ここから独善に満ちた私見を展開してみようと思う。
前述の二つの国際的に通用すると思われる、「人間性」と「行動実績」の中で、後者は判り易いが、前者が判りにくいのである。もう少し具体的に言うと、グローバルに通用する「人間性」とは如何なるものか?また、どんな行動様式を指すのだろうか?私個人の拙い経験だが、次の様なものに価値を置く国際共通の傾向があると思う。
・「侠気(おとこぎ)」のようなもの。
・泥にまみれて、「守るべきを守る」こと。
・「黙ってやるべきこと」を淡々とこなすこと。
・「勇気」を持つこと。
・「NOと言える」こと
・「Fair」であること。
など、生き方の基本姿勢(スタイル)のようなものである。一見当たり前の事ばかりなのだ。この中で、特に「矜持(きょうじ)や侠気(おとこぎ)」と言ったもの、そして「勇気」を持って行動する事は、特に国際共通で通じるのである。少し意外に感じられるかも知れない。但し、一つ条件がある。「どんな過酷な状況においてでも・・・」これらの資質を失わないという事である。同じ仕事をしていても、そのスタイルが全面に出ている人を信用する。なんとこれらは、根本的には家庭教育で生活を共にしながら、「親の生きる姿を持って子に示す類」のものではないか。口だけで説教してもだめである。行動を見ている。また、詰め込み式の学校教育ではほとんど教わらないたぐいのものである。あるいは、社会人になって、ビジネスやプライベートの人生の中で、不幸や挫折や、失敗の中から身を持って学ぶ部類の事なのだ。しかも、これらは「良きメンター」がいないとなかなか身につかない資質であり、また実生活が伴わないと習得しにくい面を持っている。「良きメンター」とは、酷い親や過酷な環境などの反面教師としての存在も含めてではあるが・・・
こう考えてみると、基本的な資質の土台形成は、やはり家庭の躾であり、以前も書いた様に、両親特に母親の影響が甚大である。但し、「構い過ぎる」と人間は育たないもらしい。今の日本では親が構い過ぎるのである。その辺が難しいところだ。英国などでは、知識教育の弊害、また少子化が進むと家庭教育も「構い過ぎる」弊害がある事を懸念して、「全人教育」を目指し、寄宿制の共同生活をするパブリックスクールを慣習とした。基本的資質の教育、あるいは躾を生活を共にしながら育んで来た文化がある。最近まで私も知らなかったが、英語の「ジェントルマン」の原義は、「パブリックスクール出身者」のことを指すのだそうである。植民地統治を長年行ってきた英国には、その功罪は別として、「人の上に立つ」「人を統治する」とはどういう事なのかについて深い洞察があった。
民主主義も、ジェントルマンシップも、実は日本人独自の文化ではなく、皆、借り物である。私は、当社の世界会議(45カ国からの連合体である。)に出席して、いつもそれを強く思うのである。他の先進国と違って、「自由」を強く願い、自分達で血を流し、多くの犠牲を伴った上でやっと獲得して来たものでは無いのだ。従って、Democratの原型を知らない為に、彼らの議論の中心に入り、合意を形成してゆくリーダーになることがなかなか出来ない。また、反論すべきところで効果的な反論を試みるのが難しい。また、外国では、ある人を皆の前で讃える時に、「本当に上手く褒めるなあ・・・」といつも感心する。エピソードの入れ方、ユーモア含めてである。その原型は個人主義とDemocratにあると私は考えている。欧米流の考え方が全面的に良い訳では勿論ない。しかし、世界の圧倒的な英語人口を考えると、彼らの土俵の上でフェアな議論を展開し説得する技量も必要かと思う。英語能力がプアだとしても、それは言い訳にはならない。それは副次的な要素である。内容と行動があれば自ずから通ずるのである。
さて、ここら辺で日本人も独自の価値を発信し、世界に矜持を示す時ではないだろうか?ビジネス、芸術、技術などを通して、生きる哲学や日本人ならではの美学などを世界に発信してゆく必要があるのかと思う。本来、勤勉でまじめで優しくまた美的センスも飛びぬけている国民なのである。皆から尊敬を受けても何ら不思議ではない・・・
一部にはJapan CoolとかTokyo Kawaii(可愛い)などのファッションや芸術分野で世界に認められる文化や、行動様式などが出て来た様だが、特に「新しいビジネス分野」で、面目を回復する必要があるだろう。どんどん世界へ発信してゆかないと、世界の人々の日本への関心は益々薄くなる。そうすると、既に世界で情報が同期を取れているので、世界の無関心は日本の日常生活に直接影響を及ぼすようになるのである。好き嫌いに関わらずである。おちおち島国だからいいじゃないか・・・という訳にはもういかない地点にまで来てしまった様である。
残念ながら・・・
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