人は「思い込み」の動物である。「思い込んだ」自分の先入観念から逃れる事はかなり難しい。自分のものの見方でしか、ものは見られない。逆に、潜在意識でこうと「思い込んだ」事柄というものは、非常に高い確率で達成するものだそうである。
「人と人との出会いを結ぶ」この仕事を通して、我々がきっかけをつくり出会いを演出している様でいて、実は全くその様な影響力は無いのではないだろうか?本質的には、その候補者が「こうとしか生きられぬ自分の人生を生きている」、それをほんの少し我々がサポートしているに過ぎない、と思い知る時がある。故人の、「運命は性格にあり。」という言葉を最近知ったが、我々がその時々の地点での判断は、自分のものの見方でしか判断し得ないものの積み重ねだった筈である。その積み重ねが、自分のこの様な人生であった訳で、我々が如何に素晴らしいと出会いを演出したとしても、当人の感性の成熟度合や問題意識(大きな意味での「性格」)に大きく左右され結果は大きく異なる。すべてが当人次第なのではないか?という観点である。自分の人生を振り返ってみても、あの場面この場面で、「こうとしか生きられなかった自分」を回顧し、その不思議さを感じざるを得ない。
翻って、「自分の人生を自分の力で生きている」と思い込んでいる方々がやはり圧倒的に多い様に思う。つい最近までの自分がそうなのだから大きな事は言えないのだが、多分、生きている様で生かされている、生かされている様で生きているという、「取り込んでいる様で取り込まれている構造」に人生諸般なっているのではないか、と最近強く感ずるようになった。自分の意思では不随意な事が人生には多く存在する。「こうとしか生きられぬ自分を生きている」というよりも、「生かされている」と考えれば、また違った余裕を持って考えられ、もう少し人生の出会いや驚きに敬虔な気持ちになる様な気がするのである。
また、「自分」という定義であるが、個人の個人で思うところの「自分」よりも、もう少し本当の「自分」とは大きい概念ではないか、という観点がある。もとより人間は人間の作ったものでは無い。自然の産物である。常々、ご自分のポテンシャルを過小評価し、「そうと思い込んだ自分」に縛られてしまっているのはないか、と思われる方々を見る事がある。人からの評価や環境や様々な要因によって、自分はこんなものだと「思い込む」事それ自体の不遜さを想う。また、その様に人を限定的に見切ってしまう傾向にあるマネジメントの罪の重大さを考える。特に、社会人としてスタートしたフレッシュマンの最初の上司、30歳から35歳前後の初級管理者となる方々のメンター役の人々の及ぼす影響は計り知れない。
私見ではあるが、特に国産一流大企業における「縦社会」の構造は頑強で、他流試合の無い「タコつぼ」状態になっている。これは日本のグローバル人材は本当に稀少である事と深く関連しているのではないか?自信のある緒輩はあるレベルに達したら、他流試合をし、一体自分が国内及び海外でどれ程のものなのか?を常に問い、内省する視点を持つべきと強く想う。また一流外資系大手のボードメンバーに最近中国人、インド人の進出は著しいが、日本人は本当に稀なのは、一体如何なる理由からなのだろうか?これは言語の問題だけでは決して無く、グローバル競争の中で日本がどの様な位置づけを占めようとしているか、に関連する深刻な問題であると思う。
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