四年程前に、このテーマのブログを書いたのだが、社内の検閲に引っかかり断念した経緯がある。人材関連の仕事の代表者が誤解され兼ねない、という理由である。ただ、昨今の友達至上主義的な雰囲気には違和感を覚える。弊社社員は(手前味噌になるが、)とても良い人格が揃っていて、何かとアドバイスを受ける事も多いのである。今回はそのリベンジとなる。
1 特に恥ずべきことでも無い。
論語の学而編に「友あり遠方より来たる、また楽しからずや」とある。或いは、友は人生の貴重な財産である、とも言われる。
私のように親友と呼べる対象が非常に少ない諸兄は世の中に意外に多いのではないか、と想像する。これは決して誇れるものでは無いが、殊更恥ずべきものでもないと思う。何故なら親友とは意図して出来るものではなく、その成立ちは、自分を投影するコアな共通点が、お互い共鳴し合い出会いとなる、そういう機会が少ないだけなのだろう、と思うからだ。ネットで繋がっている友達とは少し異なる話である。
2 自分の職業のせいか?
私に友達が少ないのは、人材関連の仕事では珍しいのかもしれない。ただ長年やっていると、余りに多くの人々の悲喜交々に寄り添う形となり、友達関係より濃厚な人付き合いをさせて頂く事も多い。友達にまで気が回らない。いい歳になり「友と呼べるジャンル」が非常に少ないことに唖然としたのは事実だが、そう悲観してはいない。親友はいれば越したことは無いのだが、友達がいないとたいそう落胆し、いつも繋がっていないと不安がる昨今の若者達を見ると、「孤独の楽しみ方」も勉強すれば良いのになぁと思う。
3 幾つかのその人の資質も要因か?
第一に、性格が悪いのは阻害要因だろう。反省すべき点だが、性格が良く八方美人に親友が出来やすい訳でもなかろう。
第二に、積極的に友達を作ろうと努力しない傾向も理由の一つだろう。よくあるのは、仕事関係でも、パーティなど多く人が集まる場所が苦手でなタイプで、私見ではこのタイプは友達は多くは無いが親友は出来そうな気もする。ただ、広く浅く友達関係を広げるのと、親友を作ることは似て非なるものである。
第三に、独立して20年間もベンチャーで仕事を続けて来た為、大会社の様に社内の他部署や社外の同期の友人などと連むチャンスが限られている事情がある。連むこと自体が苦手でもある。しかし、気を許す友達関係を避けている訳でもない。仕事柄、初対面の方とも短期間でかなり深い交流もあり得る。中には「心の交流」と呼べるものもあった。しかしそれは仕事絡みの話である。
第四に、親友などそう簡単に出来るものでは無いという思い込みがある。例えば、私には学生時代にテニス部で苦楽を共にした同僚と毎年年末に集まる会があり、かれこれ50年以上も継続している、但し社会人になってからの人生は、お互いに全くと言っていいほど知らない。60年余の人生のたった6年間ご縁があったが、大半の人生を知らない。従って何らかのきっかけでも無い限り、深く付き合うことは無いのである。過去の貴重な体験を共有する友人だが、年一回の付き合いの友人であり、それ以上でも以下でもない。それでいいとも思っている。
3 拘り過ぎるタイプも危ない!
人と人との関係性は、家族関係、仕事関係、恋愛関係、友人関係などが考えられるが、前者3つに比べ、友人関係とは非常に曖昧である。何を持ってお互い親友と認め合うのか?またいつまで継続するのか?前述のテニスの仲間に親友がいないと告白したら、俺達がいるではないか、と酷く叱られた。お前は昔から変なことに拘り過ぎる傾向があったが、変わらないなぁ、とも言われ、拘り過ぎるタイプには親友が出来にくい傾向はあるかも知れない。
4 ゆっくり待とう。
ままならない人生の中で、ある濃い共通体験から親友となるきっかけがあるのだろうが、それは故意に出来るものではないので、ゆっくり待つのも一法である。60年以上も生きて来て「心の友」という存在が少ない事は残念だが、そう落胆する事もない。友達を作ることが人生の目的ではなく、出来た友達と深く人生を味わえば、それはそれで幸せである、ということだ。「心友もどき」などと中途半端なのはいない方がいいし、また「心友」というのも少し重い感じがする。お互い「背負うもの」の意味を理解し合い、少し控えめに言いたい事が言える乾いた関係が好ましい。そういう関係を何と呼んだらいいのだろうか?
「友達以上、心友未満」か・・・。
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