人それぞれその時々のその判断が、後から振り返ってみると自分にとってのターニング・ポイントだったなあ・・・と感ずる事のできる事例を持っているものだ。それを、「ご縁とタイミング」はとても重要、という事で誰もなんとなく納得性の強いもとして捉えられている。この観念自体、とても奥が深くかつ考えれば考える程、玄妙な感覚に囚われるものではないか、と最近感じていて、少し掘り下げて考えてみたい。
というのも、実は、「物事のタイミング、所謂、物事の適宜性はいつも過ぎ去ってみて初めて分かるものではないか」、と思うからである。自身が50歳を過ぎて、かつて「心、技、体」の三拍子が自分なりに揃って充実していた頃が何時だったかは、それを過ぎて、各箇所が思い通りにはならなくなり始めて初めて、「ああ、あの頃だったなあ」と気付くのと同じ様に、自分自身で、そのベストなタイミングが上手く判断出来ない様な構造にもともとなっている様な気がしてならない。そこに「ご縁」という人知ではコントロール出来ないものの力を借りて、何事かを成し遂げる様に人が作られていると見ることで、何か遙かな玄妙な感覚に囚われるのである。逆に言うと、その「ご縁」を上手く活かせなかった様々な残念な思いが過去に累々と積み重ねられて、たまたまある幸運な人がその踏み台にのって何かを成し遂げる、と考えることも出来る。
優れた人物、頭の切れる人物、心のある人物が必ずしも良い事を成し遂げるかというと、そう単純なものではないだろう。また、僭越ながら、何故あの人が、という方が、大きく遣り甲斐のある仕事をこなし業績を挙げられている事を見聞きするのも事実である。人と人の能力の違いといっても、それは知れていると私は思う。その持てる能力をベストなタイミングでベストな環境に恵まれ発揮することで、たまたま良い業績を挙げることが出来るのではないか?ポジション、年収、スキル、会社規模、ブランド力など全く違う年間500人を超える様々な人々とお会いする機会を通じて、その事を痛感する。人の能力の大小では無く、その人の持てる能力の発揮の仕方やタイミング次第で、容易に人生が変わってしまうのではないか?
自分はそれにチャレンジするには、まだまだ準備が足りない、スキルが足りない、失敗した時の事を考えると不安である、という方にお会いすることも多いが、その方が既に「心、技、体」の三拍子が揃っているプライムタイムにいらっしゃる場合、それでは一体何時チャレンジするのですか?と問いたくなる。「先を恐れて、今を生きる事を忘れる」というのは、自分を含め常に自戒しなければならないが、「今を生きる」という事の意味が問題であると思う。一昔前に、黒澤 明監督の「生きる」という映画があったが、あの「生きる」という事が、頭では重要なことと判っているが、いざ実行するとなるとなかなか難しい事なのだろう。ジャンプしてみると、何だこんなことだったのか・・・という事も多く、また自分でリスクをとってチャレンジしている自分を感ずることが、精神衛生上にも大変良いと思うのだが・・・
「過去の縛りや未来の憂いから解放される為に、まず為すべきは現在を溌剌と生きることである。何故ならば、過去や未来に囚われた心は常に現在には無く、現在に心が無い限り今を十全に生きている事にはならないからである。」というのはある哲学者の弁だが、あっそうか、という程、シンプルな論理性に感心した覚えがある。
ただ、それは何かを捨てて覚悟を決めるという「条件つき」な様な気がする。チャレンジされる方は常に何かのしがらみを捨てている。「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」である。ここからが私の独断となる訳だが、それを後押ししてくれるのが、実は「ご縁」というものなのではないか?何か「ご縁」を感じた、とよく見聞きするが、人の賢しらを超えた玄妙なものである。それが人との出会いであったり、ある偶然性や奇遇であったりするのだろうが、何か「今だ!」とふっと感ずる僥倖があるに違いない。それを気付くか気付かないかで、その後の展開が大きく左右されてしまう訳である。
日頃から、この種の感覚には鋭敏にかつ素直になれる様、気をつけていたいものである。
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