1 プロローグ
私は現在63歳で、老齢の入口に差し掛かり、若い頃には想像も出来なかったが、心、技、体とも劣化が始まりつつある。老化というよりは自分にとっては劣化の方がしっくりくる。劣化が本格的、包括的に広がる現象を老化というのかも知れない。一方、劣化も老化も本人にとっては未知の体験で大変興味深い面もある。これからの20~30年間をどう生きるかは直近の大きな課題であり、何とか元気に生き甲斐を持って生き抜いてみたい、と思う。この課題は、本格的な老齢化社会を迎える日本人にとっては、共通の課題であるに違いない。これは昔から共通のテーマであった筈だが、昔と比べ人生がかなり長くなっている分、心して立ち向かう必要がある。そんな時、ある本で、「浜までは、海女も蓑着る時雨かな」という俳句に出会った。海女はどうせ濡れるのだから、時雨れても同じということではなく、嗜みを持って浜までは蓑を被ってゆく、すなわち年老いたら、どうせ年寄りだからではなく、より自分を律し、労って、美しく強く生きなければならない、という教えである。
大企業で55歳というと、役員にならない限り役職定年もあり、何となく追いやられる感じになる。満額の退職金を得る為には数年間我慢だ、と思い込んでいる方々も多い。部下無しとなり、一気に老け込んでしまう人もいる。然し乍ら、もうそんな時代では無いのである。そこからの20年間~30年間自分にとっての第2毛作をどう設計し、デザインするか?という積極的な姿勢を持つことで、人生は大きく異なってゆく。そういう意味で50歳から55歳は、まだまだ元気なうちにその後の準備をする、大変重要なターニングポイントであったと言える。
2 若い老年の出現とそのインパクト
75歳や80歳まで現役で活躍する世代の出現は、その実例である。先日、今年70歳になる歌手の小田和正氏がテレビ出演で、その若さに驚かれていた。私の幼少期は60歳というと見た目も内容も明らかな老人が多く、周囲も労わる感覚があった。それは社会としても合意事項の様に見えた。賢人と言われるに相応しい隠居老人も市井に存在していた様に思う。半世紀たって現代は様変わりしている。医療や栄養状態が劇的に改善され長寿化し、わたしの子供時代と比べると、素晴らしく若い60代、70代が出現している。代わりに、利己的で短気でマナーに欠ける子供老人も増えている様だが、ビジネスにせよ社会貢献にせよ、何らかの仕事に元気に奉仕し続ける方々も増えてきた。一方で、2025年には認知症とその予備軍を含め1500万人という莫大な予測も出ている。9人に1人という確率だそうだ。満員電車の1両辺り数十人の認知症の患者がいる事になる。これを介護する人員不足が数十万人とも言われる。何れにせよ、心、技、体を活性化して元気に働くことである。
現役の75歳が多く存在する社会が到来しつつことは、どんな意味を持つのだろうか?第一に、60歳を過ぎても、心身とも健康を維持しやり甲斐のある仕事が続けられれば、精神衛生に良く、もちろん医療費も激減する。第二に、年金老人が相対的には減り、年金にも余裕が出る。入社から30数年年金分の保険料を払っただけで、その後30~40年国に面倒を見てもらうなどと言うことが成り立ち得ないのは明白である。年金制度は、退職後10年程度で人生を終わる時代の産物である。
当然、老年離婚も結婚もそれに纏わるビジネスも花盛りとなるだろう。老年世代の大量消費時代が到来し、若者達にお金が循環する。第三に、現役老人同士の恋愛が当たり前になり、必然的に男女ともお洒落となり格好良い老人が増える。これは大変重要でこれを見た若者達は、何か希望が持てることになる。綺麗な年寄りが粋な計らいをすることは、文句なく格好良く、若者に与えるインパクトも大きい。既に欧州などでは素敵な初老の紳士と美女のカップルは一般的である。老人が身綺麗にするには、ある程度の経済的余裕が必要だ。溜め込んで使わない老人も多いようだが、75歳まで元気で働く事が一般的になれば、シルバー市場は一気に活性化し、後期高齢者のいつ迄生きるかはわからない、という内向きな発想も変わるだろう。お金のIN OUTを適正な振り幅にする期間を出来るだけ長くする事が肝要である。そういうマインドセットが増えれば増えるほど経済は好況となる。
3 75歳現役の為の条件
では、75歳まで元気に働く為の必要条件は何か?75歳現役の為の、心、技、体である。これには50歳前後からの準備が必要だ。定年間近になってさてどうしよう?では到底遅いのである。特に大企業に長年在籍した方々からは、分業化された仕事に慣れ親しみ、その環境にあったから、それに支えられ仕事が出来ていた、というお話を聴くケースが多い。それが「経済的、精神的に独立する」という感覚を鈍らせている。
「どうせ私など独立するなんて無理」という「どうせ症候群」が要注意である。60歳を過ぎて働き続ける為には、天下りでない限り、何らかの形で「独立する形」となる。その為には技量が必要だ。技術ではなく「技量」である。技量とは技術をある環境で磨き、それが様々な環境で通用する形に磨かれ形成されてゆく。その経験が糧となり、ある分野の技術全般の「目利き」が出来るようになる。この技量があって初めて独立でき、顧客の様々なニーズに対応出来るようになるのである。この様な職人世界では一般的な、技の研鑽と応用力がホワイトカラーの仕事にも適用し得るところが興味深い。
独立にリスクを感ずる方々も多い。しかしこれからは独立したもの同士がテクノロジーを駆使し、緩やかに連携して、バーチャルな組織が企業をサポートする形が主流になってゆく。技量の不足をお互いにカバーするのである。その兆候はいくつかのシェアリングビジネスで既に証明されつつある。案ずることはない。生むが易しという言葉もある。どうせ独立するのが避けられない選択肢なら、早め早めにチャレンジする事である。
4 心身の筋トレの必要性
それと、全ての基礎となるのが、体と心の溌剌さである。技量も重要だが、体と心がまず優先である、体→心→技量の順序である。心→体ではないところが味噌である。シニアになると自分が思っているより体は傷んでいる。100メートルを足がもつれず全力疾走できる60歳はどの程度存在するか?多分10%に満たない。この自覚が出発点だ。
人間の行動は筋肉に繋がった脳により司られているので、体の各筋肉部位を意識した筋トレとその連動性は、頭の総合的な筋トレにも繋がる。体→頭の連携は筋肉の代謝と連動によってコントロールされているのである。従って、体のケアは筋力トレーニングが主体となる。
また、生きる根本である新陳代謝も筋力が中心である。頭も体もある程度の負荷をかけて筋肉部位の独立性を確保し、それぞれのスムースな伝達と連動が出来る様に再訓練が必要だ。筋肉量を太らせると言うよりは、連携性を高めることによるパワーの強化である。うら若い中学生のゴルフ研修生が、小さく細い体つきにも拘らず、筋肉の各部位をしなやかに連動させて300ヤード近い飛距離を出すのが好例である。体と頭の筋トレの詳細はまた別の機会に譲るとして、「心の筋トレ」とは何か?アンチエイジングや若返りなどのフィジカルのみ腐心していて、頭や心が空っぽでは寂しい。何故か心の筋トレを蔑ろにしている日本人が多数を占めるようになった様な気がする。精神の糧をどう蓄積し、整理整頓し、それをどう紡いでゆくのか?そしてどう死を迎えるのか?は人生の集大成の作業だった筈である。私見だが、精神の金庫の充実には、自身の体験の積み重ねと、外部から仮想体験による内省の二つの方法があるのではないか、と考える。
最近あるきっかけで、昔読んだ古典の名作の一つを再読してみたのだが、若いころとは全く別物に感じた。古典は変わらないが、我々の方が変化している。各人様々な荒波を乗り越えて来て、改めて古典と向き合うところに意味があ。古典は外部から得る精神の蓄積の宝庫である。自身の体験の蓄積による心の筋トレとして、「人の為に奉仕する」ことも効果があると言われている。これは必ずしもボランティア的なニュアンスではなく、あくまで自分の為の人への奉仕である。この点、これだけ奉仕しているのに感謝がない、などと見返りや自己満足の為のボランティアとは一線を画すものだ。ビジネスでも同様だ。これだけの品質のものを適正な対価でサービスしており、それ相応の対価を得て当然だ、という考え方があり、否定する訳ではないが少し考えが足りないと思う。相手があるから「場」が発生し、自分の技量が発揮できるのであり、「お陰様で」という発想が生まれて来る。これは顧客側も同じで、本当に苦しい時に助けてくれるのは、信頼する業者だったりする。お互い様なのである。この持ちつ持たれつの原則が柔らかに柔軟に理解でき、実践できるのが本来的な大人である。そういう意味で、人は人生を通じて、本当の大人に成長する為に生きている、とも言える。
最近のコメント