1 「精神的に一番大切にしているものは何ですか?」
そう問われた時、貴方は何と答えるのだろうか。私も自分自身に問いかけ、時々考えている。
人はその時々でさまざまな境遇があり、幸不幸があり、運不運がある。その状態により、一番大切な精神的支柱は変化するものなのかもしれない。しかし私にとって間違いなく大切なものの最上位にあり続けるもの、「精神の自由」を今回のテーマにしたいと思う。
2 転職を決意させたもの
大そうなテーマである。書くのに逡巡してしまうが、高邁な思想を展開できるはずもなく、普段着のそれである。
精神の自由を感じている時、人は楽しく活発になる。頭も身体もうまく回転して清々しい感じだ。その逆の場合、身体も心も硬直して顔つきも悪くなってしまう。精神的に自由でないと感じた時に、塞ぎ込んでしまいメンタルにきてしまうケースもある。
何かを達成した後や満足を得た後に精神の自由を感ずるかというと、必ずしもそうでもない。むしろ逆境の中でも、それを保持し続ける方々がいる。
この「精神の自由」とは誠に興味深く、45歳前の初の転職時ごろからずっと気になっていた。私にとっては考え続けなければならない重要なテーマである。
この仕事を選んだのもその影響がある。前職ではIT産業に20年以上在籍した。ある立場となり、経営会議にも頻繁に呼ばれるようになった頃、社内のポリティックスに引きずり回され、顧客に眼を向ける時間がほとんど取れなくなった。
プレッシャーもあったのだろう。ある時、妻に「最近顔つきが悪くなったよ」と言われ、「これはいかん!」と転職を決意した。嘘のような本当の話である。
この転職の動機をよく考えてみると、この「精神の自由」ということに関係している事が後からほのぼのと分かってきたのである。
3 今考えれば無謀な転職だったが・・・
サラリーマンであれば、前述のような事はよく起きる。「あるタイミングで、あるきっかけを得ると、人は行動を起こす」ことがよくある。
当時頭の中で壊れたテープレコーダーのように繰り返し反復していたのは、Control your destiny, or someone else will. (運命の手綱は自分で握れ、さもないと一生他人に握らせることになる)というGEのジャック・ウェルチの言葉だった。あれから16年経ったが、当時の記憶は昨日の事のように鮮明に蘇ってくる。
何事も「縁とタイミング」と言う。当時はまだどこに転職するかは決めてはいない。決めていたのは、同業界や同職種への転職ではなく、チャレンジしがいがありそうで、できれば「独立」も視野に入れたものであってほしい、ということだった。
結果、現在の職業を選んだわけだが、誰から見ても少し無謀な転職だった。転職の世話をするのに転職が初めて、異業種、異業界であり人事の経験などない。しかも44歳の初めての転職でもある。プロとなった今の自分から見ても少々危ない要素があった。
4 必要なのは些細な“勇気”
多かれ少なかれ、人は何らかの制約条件の中で何かにチャレンジをしている自分に「精神の自由」を感ずることが多い。
心理学に「つり橋効果」というものがある。男女が一緒につり橋を渡る緊張感やドキドキ感を恋愛と勘違いしてしまい、その後、すぐに恋愛感情は冷めてしまう現象である。そう考えると、「精神の自由」もすぐ冷めてしまうようなものではいけないが、「危険」や「勇気」とが密接に関連していることに気付かされる。
現代では「勇気」というとお伽話やアニメの中の言葉のような響きがある。だが「勇気」がないためにもう一歩進む事ができず、成就しなかった経験を誰しも持っているのではなかろうか?
言葉を換えれば、ちょっとした「勇気」を持つことができれば、さまざまなリスクを乗り越えて意外にシンプルに解決に結びつく事が多いとも言える。
繰り返すが、ここで言っている「勇気」とは、蛮勇的なニュアンスとはかなり異なる。もっと身近にある「ちょっとした勇気」なのだ。例えば親切心から人に席を譲るにも勇気がいる。親しい仲間や肉親に改めて感謝の気持ちを表わすにも勇気がいる。緊張感のある役員会議や顧客のトップに自分の想いを伝えるにも勇気がいる。「ま、いいか」と思えば見過ごす類のものである。
しかしながら、実はこのような些細なことに常にチャレンジし続けることは容易ではない。もちろん、「その場に留まる」勇気もあるかもしれない。大事なのは、同じ留まるにせよ、仕方なく留まるのと勇気を持って留まるのではかなり内容が違うという点だ。「神は細部に宿る」と言われるが、まさにここにこそ精神の自由を獲得し、ひとかどの人物を育む重要なヒントがあるような気がする。
ある作家が、長い人生を生き抜くのに2つのかけがえのない能力、それは「忍耐と勇気」である、と言っている。「勇気と忍耐」でないところがミソである。「忍耐と勇気」。まず我慢、その上でいざとなった時に勇気を出して行動するという手順だ。
5 その時々のチャレンジを続けること
私はもともと短気な性格で、あの場面でああすれば良かった、こうすれば良かった、と後から振り返ることが多い。60歳を超えて、それらの後悔や逡巡の結果の産物として今の自分があると、実感できるのである。
ただ精神の自由という意味では、今までの人生は案外捨てたものでもないとも思える。名声や富とは無縁であり、割も喰ったが、やりたいこともある程度できた。あるいは、人に恵まれ周りの人の協力を得てさせてもらった、という方が正しいのかもしれない。
昔から変に正義感があり、いじめっ子のガキ大将に喰ってかかって痛い目をみたり、その後、ガキ大将と意外にも親しくなったりした。人と人の付き合いが濃い時代で、その時代や年齢なりのチャレンジの中で、人は精神の自由を感じるのではないだろうか?
なぜ、私にとって「精神の自由」は最上位に位置するのか? これは説明が難しい。「真、善、美」、安心感、愛されること、チャレンジ感、役に立つこと、達成感、などなど多種な価値観の方がいらっしゃるだろう。
あえて理由を説明するならば、私が“緊張民族”であり、「精神の自由」無しには、普通のパフォーマンスさえ挙げられないことが起因している。精神の自由が確保されれば、思い切った行動を楽しむ余裕が生まれる。また、その確保のためには、身を削ることも厭わないと思える事が、その理由である。
今年はさまざまな面で激動の年になると予想されているようだ。現実は「なるようにしかならない」あるいは「なるようになる」(かなりニュアンスが違うが)というものかもしれないが、精神の自由は何とか確保できた、という年にしたいものだ。
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