1 メンターとの出会いが人生を変える
最近、四半世紀前に私にとってビジネスのメンターだった方が亡くなられた。当時のクライアントの財務・IT担当専務で、業者である私に向き合い、「ビジネスとは何か」を身をもって示して下さった。
ある中堅オーナー企業の大番頭であり、オーナーを支え続けた仕事人生の中で素晴らしい見識と人品を備えていらした。
昔はそういう日本人が少なからず存在したのである。人にはそれぞれの才能がある。私の才能など取るに足らないものだが、どんな才能も、それを開花させるメンターが存在する。
「いやいや、私個人の努力や力で今の成功がある」という人を時々見かけるが、少し考えが足りないか、相応の苦労をもって考え直す機会がこれからあるのかもしれない。
メンターとは、師匠のようなものだ。イチロー選手には仰木監督、高橋尚子選手には小出監督、小澤征悦氏にはバーンスタイン、かつてのタイガー・ウッズにはブッチ・ハーモン、枚挙にいとまがない。
スポーツ以外にも、芸術、学問、ビジネスに至るまで、こうした関係性は存在していて、ある専門性を磨く際の「基本的な姿勢」を時間をかけて教え込むという共通点を持つ。メンターがいることで、本人はその持てるポテンシャルを開花させ、その人なりの大輪の花を咲かせるのだ。
高橋尚子選手のエピソード、小澤征悦氏のエピソードからは、メンターとはお互いに選び合い成立するのだなぁ、と考えさせられる。双方とも、小出監督やバーンスタインに当時面識もないのに、直談判で押しかけたそうである。
メンターも彼等を選び、師弟関係が成立した。「お互いが選び抜く目」を持っていたということだ。こういう話は、人と人との出会いの機微をよく表していて感動的である。
2 コーチングは他者から本質を引き出す技術
コーチングはメンタリングとよく対比される。コーチングは海外では一般的で、職業化されている。スポーツ、芸能、学問、ビジネスの多岐にわたる分野で、それぞれの道のエキスパートが存在する。
コーチングとは、他者から本質を引き出す技術である。その手法は一般化され、それを学ぶ機関や資格まである。したがって、対象者がある程度の内容(技術や経験、ノウハウなど)を持っていることが前提となる。
コーチングは、対象者がある環境や困難を乗り越える際、また本来自身が持つ潜在力を上手く発揮できない状況にある時、コンサルタント側に必要なインタビュー技術であり、「答えは常に対象の中に存在する」という強い信念に支えられているそうだ。
欧米では、経営者を対象とするエクゼクティブコーチングの必要性が広く認知されている。エクゼクティブコーチングでは、コーチングする相手の分野に対する経験やノウハウというよりは、その相手や環境に応じて、対象から本質的なものを引き出すことが求められる。そうした技術を研鑽するとこで、コーチングの資格を取得することができる。
3 メンタリングは相手と「付かず離れず」
一方、メンタリングは必ずしも職業化はされていない。もっと個人的な関係である。
私は前職で外資系コンビューターベンダーに在籍していたが、30代前半の頃のメンターは、「営業は技術体系である」ということを身をもって教えてくれた。それ以来、私はモノ売りのコンプレックスから解放され、ソリューションセールスの道を歩むことができた。
メンタリングとは、その相手と付かず離れず、見守り続け、見続けられている関係性であり、コーチングより少し長いスパンで物事を考える。ここがポイントだ。
だからこそ、これから10年間、継続して考えてゆかねばならないような、その人にとっての中核となる課題を相手に気付かせることができる。それは今後、その人が習熟すべき専門性や技術の背後にある本質的なこと、その「方向性」や学び続ける「姿勢」などを理解することにつながる。これができて初めて専門性が身に付く。
メンターは、その相手がいつの日にかメンターに育ってくれることを願っているのである。そしてそれは、ある技量を養って「世に返す」という側面を持つことが多い。
メンタリングの後は、相手が自分で考え、方向性を決めて行かなければならない。このため、あえて距離を置くのである。そうやって一人前になったのち、かつてのメンターは相手にとって「人生の師」に昇華してゆくこともある。
私事ではあるが、私は、営業全般や顧客対応におけるメンター、経営や経営者への対応におけるメンター、人生全般の生きる姿勢におけるメンター、大きく分けて3人のメンターから勉強させていただいた。この方々がいなかったら、私は現在のビジネスを16年間も続けることはできなかったのだろうと思っている。
今までの人生の中で、自分にとってのメンターは誰だったかを考えてみるのはキャリアの棚卸しでもあり、感慨深い。残念ながら、これといったメンターが存在しない方も中にはいらっしゃるだろう。実は、「自分にとってのメンターに出会う」のは、転職の大きな目的でもある。自分の大きな可能性を再発掘する機会になるからだ。
4 なぜメンターは「国の宝」なのか
私は本来堪え性のない性格なのだが、仮にメンターとの集中期間を通して、人生にとって決定的に重要な資質の1つである「忍耐と勇気」をじっくりと学んだとしよう。
これはその人にとって果報であり、人生の宝物のようなものだ。困難な時に耐え忍んだり、勇気を発揮すべき時、本来の勇気を発揮する事はなまなかのことではない。
忍耐も勇気もよく使う言葉であるが、その時々の状況に応じた「忍耐と勇気」を用いることができる人は、世の中にそう多くはない。換言すると、リーダーシップである。
それは人材育成、ひいては国の発展にとり決定的に重要である。だからメンターは「国の宝」だと私は考えている。
日本の初老の紳士、淑女たちは、若い世代に現職をさっさと譲って、本来メンターで活躍すべきなのである。あらゆる場面で活躍する若い人材を輩出する源泉となるからである。
そのスキルや資質は十分ある元気な方々は大勢いらっしゃるが、そういう目的で再トレーニングを受け、その活動を力強くサポートし、支援する社会の仕組みが育っていない。高齢化社会が本格化する中で、これは由々しき問題ではないか、と思う。
初老人口をなんとか活用しなければならない、というステレオタイプの発想自体が間違っている。初老になりさまざまな経験を経た人材でないとできないことがあるのである。
初老を迎えた側も、頭と身体を鍛え直し、培った経験やノウハウを整理整頓して、自分たちのスキルがどの分野にどのように活かせるのか、もっと深く煮詰めてゆき、それを広く世間と共有しなければならない。現代のWeb技術は、こういうことのためにこそ、使うべきなのである。
う。
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