言葉というものは、名づけてしまうとその地点から一人歩きを始める。例えば、「調教」という言葉がある。「調教」というと相手は動物相手で、人間相手だと「教育」という言葉が使われる。「調教」という言葉のイメージは、何が何でも何かをさせる、あるいは躾る・・・という命令的なニュアンスが付きまとう。しかしながら、人間に対しても、初めてのトライの場合には、仕事にせよ、習い事にせよ、スポーツにせよ、一つの型が出来るまでは「調教」が最初のステップでは適切な表現であり、その後に「教育」が来るという事を言いたい。何故ならば、ある目的を達成する為に長い時間をかけて形成されてきた「合理的な型」があり、それを無視して上達は望めない。まずそれを強制的に身につける段階で、生徒側が口を挟む余地はないのである。それは反復練習によって身につけるしか方法が無い。しかもそれが最も早い上達を保証する。しっかりした土台が無いと何を積み上げても、砂上の楼閣となってしまうのである。こういう事をはっきりと書くのはなかなか勇気がいる事だが、「教育なり人材育成」などという甘美な言葉に騙され、本来的な教育の現場が最近どんどん少なくなっているのではないだろうか。「調教」の言葉の持つ意味は重い・・・。
犬や馬の調教の話はよく聞く話である。まず最初に行うのは、お互いの「位置関係」の確認である。特に動物には上下関係を徹底的に教える。どちらが主人であるか、をとことん判らせないと、動物は主人と認めないで馬鹿にする様になる。そうすると、躾も調教も出来ない。ある行動が出来る様になったら、褒めてあげるのは重要なポイントだ。飴と鞭である。最近、犬を躾けられず困り果てている飼い主が後を絶たないと言う。これは子供の躾も同様だそうである。最近の学級崩壊などというのは、躾けられない親子から考えると当然の結果なのかもしれない。何事もすべからく、初めての仕事分野の習得は、「調教」から始まるべきなのである。年齢や社会的地位や性別などは関係が無い。先生役と生徒役の関係である。これは人権の尊重などとは全く違う次元の話である。「社会人」としてあるいは「大人」として立派になる為にも、社会に出てからの調教段階こそが重要である。
その際の基本ルールは、まず「命令形」を取ることにある。つまり「強制」である。その行動が身につくまで何回も練習させるのである。出来たら褒めてあげることを忘れてはならない。頭の中にポジティブ・ループが起きるからだ。行動できる様になってから、何故かを考えさせる。ここがポイントである。出来ないうちに、生徒側に四の五の言わせないのである。(笑)何故なら、仕事は頭と体の双方を使って行うもので、まず大脳で理解し、それを行動に移す段階では小脳の働きに移行する事に深く関連している。スポーツなどをつかさどるのは小脳であり、反復練習が必要な事は広く知られているが、ほとんどの仕事も実行段階では手足を動かさなければならない様々な基本動作の連続なのだ。この基本動作の習熟度の高さが次の応用力に繋がる。従って、小脳に依存する基本動作そのものについて、大脳を使って、「ああでもない、こうでもない」と議論しても始まらないのである。前にも書いたことがあるが、野球の大リーガーの名選手の練習メニューも基本の反復練習である。それがスーパープレイを生むのだ。これらは重要な点なので、敢えて本質的なものを抽出して強調しておきたい。
一つは「位置関係」の問題 :
封建的な意味では全くなく、習う側は生徒として先生や指導者の前に出てはいけない。この事に関してはどちらが主人なのか、を明確にする必要があるという点である。その規律が守られず、生徒側の我が儘を許すと、生徒側が全く上達しないという損害を被ることになる。この関係にお互いの躊躇があるのが一番いけない。例えスキルが先生を超えたとしても先生を立てるのである。これが生徒の態度である。これが何故重要かと言うと、もう一つ謙虚に習うという意識を持ち続けないと成長し続ける事は難しいことと深く関係している。これらの事は、今の日本ではいろいろな分野で崩壊寸前である。弱腰の先生に、生意気で怠け者の生徒、それを強力にサポートする保護者という構造になっているのは皮肉だなと思う。
もう一つは、「型を反復訓練」という事 :
「大体頭で判った」というレベルと、「どんな環境でも自然と体と頭が最適に動く」レベルとでは大きく違う。仕事とは、判った事を体が覚え込みどんな環境でも適応出来るように、型を反復訓練することなのである。何か軍隊系の右翼の発言の様であるが、(笑)お許しいただきたい。だが、それが本質である事を良き指導者は熟知している。従って、知識がある事と、知識を使い知恵として行動できる事の隔たりは大きい。それには反復訓練なのだ。
それぞれのスキルや仕事を習得し、その世界である一定のパフォーマンスが挙げられる様になって、「調教」の時代は終わり「教育」が始まる。それは簡潔に言うと、「自分がどれ程のものか?」世間を広く見るという事である。または、ある過酷な体験をし、それを曲がりなりにも乗り越える事である。そこで天狗になりそうな自分を諌める必要がある。一旦謙虚になると、次の成長の準備が整うのである。これが人材育成の本質かと考える。こう考えると、先生役やメンター役の社会的存在意義はとてつもなく大きいことが判る。物事の本質を捉え、生徒各人の個性を見抜いて指導に当たる力量が要求される。優れたメンターは国の宝だ。
さて、「人に教わる」プロセスの次に、その技術の熟成度会いを「人に教える」という事で確認するというプロセスがある。生徒側から先生役への転換である。先生役になってみると、その技術が自分のものになっているかどうか、が発覚する。その本質を理解していないと、人には教えられない。また、教えてみると、どこが判っていないのかが明確になる。自分のそれを行っている姿は自分では見れないのだが、人に教える事で、あたかも自分の仮の姿を見ながら教える事が出来る、貴重な機会なのだ。
もう一つ、重要なプロセスがある。「自分で自分を教育する(育てる)」というプロセスだ。具体的には、「ものを読み」、「ものを書く」ことで人は育ってゆく。読書の重要性については再三書いているが、実はそれだけでは不十分で、「ものを書く」習慣を持つことが、判ったという「知識」を「知恵」に変換して定着させ応用力を育む重要な役割を果たすことが最近判って来ている。実は、私がこういう事に気付いたのはつい最近である。ブログを書き始めてから、あるいは書きながら、「ああ、そうなんだなぁ。」と反芻しながら初めて判って来ることが多いのである。従って、あらゆる仕事に関して、例えばプロジェクト・マネジメントでもピープル・マネジメントでも、あるいは経営論でも良い。自分の頭で考え、「ものを書く」ことで上達は加速してゆく。
昔の上司から、人から教わることを「第一教育」、人に教えることを「第二教育」、自分で自分に教えることを「第三教育」と呼ぶと教えられた。最終的に第三教育を継続的に出来るかが、実は「本当の才能」ではないか、と最近考えている。光るような才能を持つものも「自分を育てる持続性」がないと大成しない。考えてみれば、「人を育てる」という事は、実は「自分を育てる」という事と表裏一体の関係だったのである。なかなか意味深いと思う。人は3段階で育つ。教えられる、教える、自分で自分を育てる。それは多分死ぬまで終わらない営みなのだろう。
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