業に入社しその仕事を教えられ、専門性を極める。ある年齢以降にそのスキルを持って何か世に還すような仕事に巡り合えれば望ましい。
さて、そういう人生の変遷の中で、その人の持てるポテンシャルをいかんなく発揮し、ますます伸びる人と、そうでない人がいる。
自分を含め大半が後者に属するのだが、その差は何なのだろう、と以前から気になっていた。私見ではあるが、私はその秘密が「第三教育」に潜んでいるのではないか? と最近思っている。では、第三教育とは何か。
1 第三教育とは何か
第一教育とは、人から教わること。第ニ教育とは、人に教えること。第三教育とは、自分で自分を教育すること。すなわち「学ぶ」ということだ。
これは、かなり昔、前職のIT企業時代に上司から言われた言葉で、一般用語ではない。自身の仕事に関連することを学ぶのはむしろ当たり前である。もっと広い一般教養分野を継続的に学ぶ蓄積が重要なのだ。
仕事の関連書物を読むのでさえ、インターネットの情報で手軽に済ませてしまいがちな世相である。まして継続的に広く一般教養を学び続けることは容易なことではない。
一般教養とは、政治、経済、歴史、科学、文芸・文化、スポーツ、趣味、健康など多岐にわたる。そこには、これからの時代の変化を読み解くヒントが満載であり、ある特定の仕事に関する分野の知識・経験がいかに狭いものかを思い知らされる。この歳になってこの「第三教育」という言葉の重みが分かってきたような気がする。
社会人になっても一人前になるまでは、人から教わる第一教育は受け続けることになる。一人前になった後も、人のふりを参考にして、自分の技量を磨こうという姿勢は大切だ。特に「上には上がある」ことを認め、そうした人に出会ったときに驚くような「素直さ」が大切で、ひとかどの人は皆その特質を持っている。
人に教える第二教育の重要さは言うまでもない。人に教えて初めて自分がいかに“分かっていなかったか”が「分かる」ことが多いからだ。
「分かる」というのは、考えてみれば不思議な感覚である。アルキメデスが風呂に浸かりながら「ユーリカ!(分かった!)」と叫んだのは有名な話だが、「分かる」とは本来、理解や納得を超えている。その物事の本質を捉え、それを他のことにも応用することが可能で、それをベースに新たなことを展開できる状態を指しているのだ。
2 考え抜く力、推し進める力
さて、その「分かる」状態に第三教育が深く関連している。理解や納得の上で、自らさらに学ぶことで普遍性に昇華させたり、思い込みにとどまらない、柔軟性と視野の広さを養うわけである。
ネットの珠玉混合の情報を見て、分かったつもりになっていることが何と多いか、と自戒している。新聞もテレビも一面的で、ある方向性にバイアスが掛かっていることが多い。
あるテーマを深掘りして調べてみる。それに関連する書籍を読み漁る。そして自分で考えて行動してみる習慣を持つ。そう、これは「Open Question」(未解決の問題)に対して考え抜く訓練である。
考えてみれば、人生の大事な局面ではOpen Questionに答えを出すことが要求されることが多い。こうしたプロセスを経ないと、常識や既成の概念に囚われない独自の発想は持ち得ない。そして、目覚ましく伸びてゆく方々は、皆この特質を持っているのである。長年エクゼクティブサーチという仕事をやっていて痛感することだ。
世の中やクローバル環境が複雑化している。さらにその中で「時代の変わり目」に遭遇している感がある。この様な中で、新たなビジネスチャンスや、それを支えるビジネスモデル、新たなサービス、新たな価値を模索している方々も多いだろう。
その際に、日頃から第三教育が身に付いている方とそうでない方では、雲泥の差が生じてしまう。考えてみれば、新しいことをする際には、新しいことを学ぶ必要がある。当たり前過ぎるかもしれないが、自ら学び、ある意味「分かる」ところまで推し進める力が必要なのである。
3 「心で分かる」とは
「分かる」ということには、3つのステージがあると私は考えている。「頭」「身体」「心」である。頭で理解したことを、身体に覚え込ませる。その反復練習の結果として、意識しなくとも、その行動をある品質で再現できるようになる。
さてここからが問題だ。無意識に行動を起こせるということは、意識下、すなわち潜在意識にそのノウハウが蓄積されるという意味である。
この分野は広大な未知の領域であるが、ある時点で心と繋がっている。理知と情念が混沌する中で、様々な制約条件に応じ、適切な情報やノウハウを瞬時に引き出す事は、潜在意識や心の領域が深く関係しているのではないだろうか?
「分かる」ということも、このレベルまで引き上げられて、初めて応用性が発揮される。ある深い専門性を持つ方々が、一芸に通ずるのはその証左である。
4 自分で自分をデザインする
グラフィックデザイナーの佐藤可士和氏の『超整理術』という本がある。この中で、佐藤氏は業種、業態の異なるトップマネジメントを相手に、CI(Corporate Identity)の再構築からビジネスモデルの変革提案に至る、高度なコンサルティング活動の実態を明らかにしている。
企業のロゴのデザインかと思っていたら、「企業のデザイン」まで広範に手掛けられているのには驚いた。
ある記者からの、「なぜ業種・業態の異なる企業の上流戦略的なこともこなせるのか?」という質問に対し、佐藤氏は次のように答えている。
「対象の中に常に答えがある。トップはその方々自身の中に、新しいイノベーションの答えや今後の企業の方向性の鍵を必ず持っているものだ。それを引き出すのが私の役割であり、そのためには、輻輳している環境条件や、その会社の強み、弱み、ポジショニングなどを整理整頓してあげるテクニックが必要で、それが適切に為されれば、自ずと答えは見えてくる」
また、佐藤氏は「イノベーションとは、奇想天外なアイデアを思いつくことではない。情報を整理して本質を明らかにする事で見えてくるものである」といったことも言っている。
この着想自体が、佐藤氏の天才ぶりを示しているわけではあるが、それを支えているのが、鋭い感性とたゆまぬ第三教育の姿勢である。
自分で自分を教育するということは、自分をなりたい自分にデザインする、ということかもしれない。大リーガーのイチロー選手などを見ているとその意図を感じる。天才には及ぶべくもないが、ある専門性に対する「分かり方」(例えば、ボールをバットに当てること)が独特で突き抜けている。
一生の中で活用できる脳は全体の数パーセントに過ぎないという。そういう意味で、第三教育は「新たな自分の可能性」との出会いとも言えるだろう。
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