大そうなテーマだ。書くのに逡巡してしまうが、高邁な思想を展開出来る筈もなく、普段着のそれである。「精神の風通し」という方が適切かも知れない。45歳前の初の転職時ごろからずっと気になっていて、今でも時に触れ考えを巡らすテーマだ。この仕事を選んだのもその影響がある。前職ではIT産業に20年以上在籍した。ある立場となり経営会議にも頻繁に呼ばれる様になった頃、社内のポリティックスに引きずり回され、顧客に眼を向ける時間が殆ど取れなくなった。プレッシャーもあったのだろう。ある時、うちの者から「最近顔つきが悪くなったよ」と言われ、「これはいかん!」と転職を決意した。嘘の様な本当の話である。転職の動機をよく考えてみると、この「精神の自由」ということに関係している事が後からほのぼのと分かって来たのである。サラリーマンであれば、前述の様な事はよくある事だ。しかし「あるタイミングであるきっかけを得ると人は行動を起こす」事がある。当時頭の中で壊れたテープレコーダーの様に繰り返し反復していたのは、Control your destiny, or someone else will. (運命の手綱は自分で握れ、さもないと一生他人に握らせることになる。)というGEのジャック ウェルチの言葉だった。あれから16年経ったが、当時の記憶は昨日の事の様に鮮明に残っている。
当時まだどこに転職するかは決めてはいない。決めていたのは、同業界や同職種への転職では無く、チャレンジしがいがありそうで、出来れば「独立」も視野に入れたものであって欲しい、ということだった。結果、現在の職業を選んだ訳だが、誰から見ても少し無謀な転職だった。転職の世話をするのに転職が初めて、異業種、異業界であり人事の経験などないこと、しかも44歳の初めての転職でもある。今から思うと、我々プロから見ても少々危ない要素がある。ただ16年間続けてこられたのはある適性があったのだろう。こう考えると賢しらに候補者に転職やキャリアに対するコンサルティングが出来なくなる。(笑)ただ言えるのは自分を追い込んだお蔭で、怠け者の私の様な者でも少し真剣に「覚悟し行動」したのだろう。
多かれ少なかれ、人は何らかのチャレンジをしている自分に「精神の自由」を感ずることが多い。これにどの程度の価値を置くのかは個人による。当時の自分にとってはかなり重要で、お金や大企業のポジションや世間体などは取るに足らない事であった。考えてみると、「精神の自由」と「勇気」とは密接に関連しているということに気付かされる。現代では「勇気」というとお伽話やアニメの中の言葉のような響きがある。しかし色々検討したが「勇気」が無い為にもう一歩進む事が出来ず、成就しなかった経験を誰しも持っているのではなかろうか?言葉を換えれば、もう少し「勇気」を持つことが出来れば、様々なリスクを乗り越え辿り着くべき場所にちゃんと落ち着く様に、世の中の仕組みはなっている様な気がする。
ここで言っている「勇気」とは、蛮勇的なニュアンスとはかなり異なる。何と言ったらいいのか?もっと身近にある「ちょっとした勇気」のことだ。例えば親切心から人に席を譲るにも、親しい仲間や肉親に改めて感謝の気持ちを表わすにも、自分の非を認めて謝るにも、人前で他人の秘密を暴露したくなる誘惑を抑えるにも勇気(これは「我慢」かもしれぬ。)がいる。また緊張感のある役員会議の席上や顧客のトップに自分の想いを伝えるにも勇気がいる。まっ、いいか、と思えば見過ごしてしまうが、「さあ、ここだ」というタイミングはそう再びやってこないのである。私の場合、お恥ずかしい話だが、何度そのタイミングを逃しただろうか?ちょっとした勇気だから難しい。大そうな勇気を誇示する人もこれが無いケースは多い。私見だが、「ちょっとした勇気と我慢(忍耐)の積み重ねが、人間を創り、人を自由にする」のではないだろうか?人材を扱うプロの立場でこの様なベタの事を書くのもどうかと思う。しかしながら、自分にとっては「コロンブスの卵」の様な発見で、如何に自分が至らないか改めて身に沁みたのである。ある作家の、人生のあらゆる局面で最も役に立ち誰にでも行使できる「魔法の杖」がある。それは「忍耐」である。という意味の言葉に出くわした事がある。それはそれで真理かと思うが、もう一つ、「勇気」があると、より明るく「精神の風通し」の良い人生になる様な気がする。
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