先日会った候補者は40前後に見えたが、実際は50前後だった。ある所で再会した方は、50前後だが60前後に見えた。前者と後者は同じ50前後だが、見え方には20歳の開きがある。これは極端な例だが、我々プロの眼から見ても、それほど見間違えることがある。人の見方は当てにならないとも言えるし、状況や環境によって人の見え方は大きく変化するとも言える。
ただ、何回か会いよく観察すると、歳なりの時熟や発想の若さを秘めていることが多く、人は皆「歳なりに見える」ところに落ち着く。それ自体とても自然なことである。しかし今日の日本には、加齢を悪人の様に忌み嫌う風潮があり、加齢に対するリスペクトが殆ど無くなってしまった。これからますます老齢化社会に入ってゆくのに、これは困った現象である。何故なのだろうか?年寄り臭く不潔なのは論外であるが、歳より若く見えるのが善、老けて見えるのが悪という図式も単純過ぎる。欧州では初老の素敵な紳士淑女の文化が息づいていていいな、と思う。何に価値を置くかは、国際的にも文化水準の程度を表しているのではないだろうか?
さて、歳なりの時熟はむしろ誇れるものである。私など短気なところがあり、後で後悔する事も多いのだが、時熟により忍耐力が強化され毅然としているのもなかなか格好が良い。何事も忍耐力が無いと成就にしないものだ。「運命とは性格である。」とは芥川龍之介の言葉だが、短気な性格は自分が弱い事の裏返しであり、こうと思い込んだ観念に縛られる幼稚性を内包している。自分にも相手にも寛容な気質を忍耐力があると勘違いしてしまうこともある。こういうタイプは、相手に迷惑をかけている事にも寛容である場合が多く、むしろ鈍感と言った方が適切かもしれない。ただ、人生の成功の基本的な要素として、「運、鈍、根」とはよく言われる。先述のタイプも「鈍」てある特質を伸ばしなりふり構わず突進して、成功してしまうケースがある。何を成功と呼ぶかは微妙であるが、人生は複雑である。
歳なりに見える中にも、初老になって内面の輝きで外面を補って余りあり、外見的にも独特の味わいを醸し出している方々がいる。この様な初老になりたいものだ、と常々思うのだがなかなか難しい。一つには、内面の凜とした美しさは、本人がかなり努力し、また周囲にその価値を認める文化の醸成が求められるからである。双方が助け合って見事な大人が出現する。
映画の俳優達は分かり易い好例だ。当時、あの渋い名優たちは一体何歳だったのだろう?と時々考える。「12人の怒れる男」のヘンリーフォンダ、「ジキル博士とハイド氏」のスペンサートレーシー、「アラビアのロレンスのピーターオツール、「カッコーの巣の上で」のジャックニコルソン、「パピヨン」のスティーブマックウィーンとダスティンホフマン、「卒業」のアンバンクラフト、「羊たちの沈黙」のアンソニーホプキンス、「冬のライオン」のキャサリンヘプバーン・・・キラ星の様だ。
日本にも渋い名優がいる。若山富三郎、石橋蓮二、三國連太郎、森繁久弥、滝沢修、蟹江敬三、志村喬などなど。その存在感が画面を引き締める。先日、一世を風靡した男優健さんと文太さんが次々と逝ってしまったが、皆さん「歳なりに見え」かつ静かに輝いている。
最近のコメント