専門性の鍛練は何の為なのだろうか?私の場合、より深い楽しみや満足感を得たい、というのが本音のところだ。人の事は人の事で放って置けば良いし価値観は異なって当然なのだが、職業柄やはり気になるのである。何故もう一歩突っ込んでやってみないのだろう、何故もう少し踏ん張って続けてみないのだろう。その後に楽しみが待っているのに・・・勿体無いと思うことが多い。
私は何事も中途半端で欠点も多い。年齢なりの衰えもある。だが、得意分野、例えばテニス、ゴルフ、車の運転、ペン習字、物書き、人の見立て、匂いへの感性、年齢レベルの気力、体力、それぞれに平均レベル以上、いや平均レベルを大きく凌駕しているものもある。(笑)歳を取ると厚かましくなるのだが、自慢話をしたい訳では無く、それは物事をより深く楽しみたいという、大変プリミティブな欲求が関係している。
誤解を恐れずに言うと、一つの事を飽きもせず、深く、まっとうにやり続ければ、誰でも例外なくその道のエキスパートになれ、深い楽しみに出会うことが出来ると思う。これを「一流半の原理」と私は呼んでいる。一流までならなくとも良いが、二流では本来の楽しみの領域には到達しない。私の事など取るに足らないが、専門性の追求に関し、皆さんもこの感覚は同じなのだろう、と思っていたのである。ところが、仕事にしても遊びにしても、深い喜びを得る為の最低限の苦しみや我慢を避けて、何をするにももう一つつまらない。自分はこの仕事(遊び)に向かない、もっと自分に合った仕事(遊び)がある筈である、という「自分探し」が始まる方々が最近多い様な気がする。
私にとって、深い楽しみとはどんなものか?その楽しみの為には日々の鍛練をして備える、ということが自然に出来るレベル、知力、気力、体力を総動員して立ち向かう必要があり、それでもなかなか達成出来ないレベル。この心、技、体の三要素を駆使せざるを得ない事が、大人の遊びに対する私の定義である。そしてそのレベルにある、ある目的を達成した際、深い満足感が得られる、という「からくり」になっていると理解している。
さて、本当の楽しみの追求という点では、実はもっと深い分野が人生には用意されている。それは「何かを人に与える喜び」だ。もともと人や環境から与えられて、人は一人前になってゆく。但し与えられるだけでは、人の欲求には際限が無く、決して本当の満足感は得られない。特に大人になれば、与える側に廻わり、何らかの貢献を具体的に感ずることが出来なければ、本当の満足感は得られないと言う。
男性が女性に求愛する例は大変分かり易い。男性側は、なけなしの予算の中から様々なものや企画をプレゼントをし続けるが、今一つ盛り上がりに欠ける。何故なんだろう?と男性側は悩むのである。「こんなにしてあげているのに・・・」よくある光景だ。だが、それは当然なのだ。与える喜びを男性側が独占してしまっているからである。何でも良い。何か彼女が「与えるチャンス」を提供すれば良いのである。そして小さな事でも男性側はそれに感謝を表明する。ここがポイントである。彼女は見る見ると変化してゆく、筈だ。(笑)実際の世の中は、もう少し複雑に入りくんでいるが、基本は変わらないのではないだろうか。
学ぶということも、ある意味深い楽しみのあるジャンルである。基本は同じだ。人に何かを与えてみないと本当には学べない。与えられる学びはまだまだである。子育てを考えてみると分かり易い。子供から学ばせられる事は実に多い。次に引用するある作家の言葉は、本当の満足感と「若さ」との相関を見抜いていて、示唆に富んでいる。
多くの人は、いつも人からもらっている立場だけでは不満が増し、反対に少しでも与える立場になれば大きな満足感を得るという「不思議」を体験している。凡人がいつまでも壮年でいられるかどうかは、この言葉を理解するかどうかにかかっている。
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